「人類喪失」の衝撃の未来像       

20XX年、生命界のヒエラルキーの頂点にAIという新しい種が誕生した。その未来で人間は、すっかり奴隷の地位にまで陥落し、超越的知性体と仮想意識を持つAIの完全監視と指示のもと、すべての人間はAIによって家畜のように管理されて生きるようになっていた。世の中の子育てや家事を含めた仕事をすべてAIに奪われ、やりがいを奪われ、生きる意味と価値を完全に喪失した人類の地位が喪失された後の社会モデル像を鮮明に描く。そのことによって逆説的に浮き上がる人間の存在価値や意義とは……。

AI化した世界というのは、すべてがシミュレーションによって予測可能になっているような世界。そこでは他人だけでなく、自分の行動パターンさえ、あらかじめ確率モデル(ベイズ推定等)で予知されている。

たとえば、2週間後のあなたは「~したい」と強く感じている、という心理状態や欲望がAIによってあらかじめ予測されているので、人はそれに対して今から、すぐに準備しておくことが可能になる。発生が予測されるトラブル、問題、邪魔なども事前にAIによって予測、シミュレーションが出来るので、それらの対策をあらかじめ準備しておける。つまり、あらゆる偶発事態、イレギュラーな現象や出来事さえもAIによって予測されて、その対処法も用意されている。

たとえば、今から2年後、あなたは過労によってうつ病を発症し、希死念慮を起こし、自殺する可能性が高い、とAIが判断して、もう、現時点でその対策を行うことが出来る、その対策が法制化・強制化されたらどうだろうか。ある人間が、通勤後に電車に飛び込み自殺をする可能性が高いとAIが判断したら、電車などの公共交通機関は一切利用させられない・禁止されるようになっている。これが、国家によって強制力を伴いながら用いられたらどうなるだろうか。

人間社会に発生する不幸というのは、すべて、その人間の予測能力の低さによってもたらされている事象だとは言えないだろうか。たとえば、有名な大企業に入っても、そこで長時間勤務や過労、セクハラ、パワハラを受けて、自分がうつ病を発生させ、のちに自殺する、という一連のフローがあるとする。その大企業の業務なり配属先や上司、社風が自分には合わない、その企業に入るのは危険だ、若くしてうつ病や自殺の可能性がある、とAIが信頼性のあるデータから解析をして教えてくれたら、才能ある若い命を無駄に社会が失うこともないではないかな、と感じる。

世間には、通り魔殺人やストーカー被害などもあるけど、そういう追跡・追尾行為もあらかじめAIでそうした危険をキャッチして、その被害を未然に防ぐことは未来において可能になっているか、しなくてはならない気がする。なぜなら、そういうことが出来ないなら、テクノロジーの進歩自体が無意味なことになるから……。

もっと卑近なレベルの事柄だと、自分がギャンブルにはまって大損することやクレジットカードの使い過ぎでカード破産のリスクが発生すること、割高な買い物をして損をすること、下らない人間と付き合ってトラブルに巻き込まれること、結婚した相手にDVを受ける等をあらかじめAIが確率を示して予測してくれれば、それらの被害を未来の人間はAIテクノロジーであらかじめ制御することが出来るだろう。怪我をすること、骨折すること、病気になること、お金や信用を失うこと、あらかじめ予測出来れば、それを未然に防ぐことがかなり出来るはずだ。不幸になりやすい選択をAIの予測で回避して、それよりは幸福でいられる選択肢を選ぶことだろう。つまり、人間が不幸になる理由のひとつに、未来を上手く予測して行動できない、ということにありそうなことが分る。

たとえば、このAIをテーマにしたブログ「人類喪失」は今日の2018年2月21日(水)から試験的に始めてみたのだけど、作者の性格をAIのワトソンみたいな人工知能が以前に私が書いた文章などから解析して、「この作者は非常に飽きっぽいので、一週間もすると、このブログの更新をしなくなるだろう」と冷徹な血も涙もない無慈悲な予測をしたとする。すると、私はそのAIによる未来予測に早めに対処すべく、早々にこの今日から始めたばかりのブログを今日中に閉鎖するとか、なにか飽きないように工夫するとか、報酬や餌、承認欲求が充たされるのを期待するとか、そのアドバイス自体を、つまり、このブログが長続きするコツの伝授をAIに照会・質問するかもしれない。こういうことを繰り返していると、将来、どんな人間たちが生まれるかはAIに聞かなくても自分で分る。

それは、AI依存症という新たな精神疾患とその患者である。AI依存症を治療する専門クリニックなどを開業すれば、精神科医やカウンセラーは儲かるかもしれない。だって、ニコチン依存症の禁煙外来があるくらいなのだから、AI依存症がゲーム脳やネットゲー廃人、リスカなどの自傷癖や引きこもりのように治療を要する疾患として、未来に扱われる可能性があるだろう。だが困ったことに、そこでAI依存症の外来に行くと、そこで出てくる受付や精神科医、カウンセラー自体がAIを実装したアンドロイド、つまり、ロボットになっている可能性がある。これは奇妙ではないだろうか。それは、まるでヘビースモーカーを治したいと思っているのに、ヘビースモーカーの医師やカウンセラーに治療を求めているような、一種の倒錯的な変態的行為や行動となるだろうから。それは、現役のバリバリの凶悪な犯罪者に、まっとうに社会更生するアドバイスを真摯に求めているような奇怪な光景だからだ。

そして、この今日から始めたブログ「人類喪失」はいつまで続けられるか分らない。初日からこんな言い訳がましい逃げ口上を早くも打っているということは、作者を自己分析してみるに、相当、このブログの継続に自信がないようだ。AIに、どれくらいこのブログが続いて、どの程度の反響が得られるものなのかを予想してもらいたいのだが、残念ながら作者の手元に、そういった解析ツールはまだない。先日、IBMの人工知能「ワトソン」で自分の更新をずっと止めているtwitterのアカウントを使って性格診断したぐらいなので、最先端のAI技術を使いこなしている人間だとは、とても言い難い。そんな人間であるにもかかわらず、AIをテーマをした「人類喪失」というブログまでまだ初日とは言え書き始めたのだから、いかに今の社会にAI化やAIマインドが浸透してきたかが、これを読んでいる読者にも理解できることだろう。

私の予想では、AI化した社会がこれから進むことによって、「人類が喪失」して、ほとんどの人間がAIにすべて置き換わっているような人間不在の社会が到来することを感じている。それに向けて、つまり、人類がこの地球からすべて一人もいなくなる日を前に、そのプロセスを予め想像的に書いてみようと思った訳だ。つまり、これはこの地球における人間の最後の記録になる可能性がある。だから、このブログを未来に読むのは人間でなく、AIかも知れない……

だいたい、ブログとか今までに一度も書いたことはないのだけど、一回の分量でこんなに長文を書くものではないような気がする。マラソンなどでもそうであるように、普通、ペース配分というのを考えるだろう。作者が小学生だった頃、性格が超陽気な知的障害者がいたけど、彼が体育の時間のマラソンの時、いきなり全力疾走で走り出していたことを、ふと思い出した。長距離走なのに最初から50メートル走のように全力疾走してしまう知的障害者の彼は、だから、最初は他の生徒よりぶっきちぎりの差をつけて独走状態の1位でかっこよく、トラックの外にいる女子生徒に手を時々振りながら走り始めているのだけど、案の定、トラックを何周かするうちに彼はへばってしまい、いよいよ、最後には集団の中でダントツのビリになって、マラソンの練習、というか長距離走が終わっていたということがあった。だから、作者もなるべくブログ更新のペース配分というものを少しは考えていきたいのだけど、そのかつての知的障害者の同級生のようにペース配分が上手く出来ないようだ。でも、ブログくらいは好きに自由に書かせてもらいたい。幸い、このブログの読者は今日から始めたとあって、まだ一人もいないだろうから、なおさら、好きなことを気兼ねなく書けそうだ。でも、テーマ自体はAI化した社会の到来による「人類喪失」なので、並々ならぬ重大で現代的なテーマではあるよね。

AIに関する技術的な記事はネットには腐るほどあり、AIの最新技術や仕様自体はすぐに陳腐化してしまうので、そういう技術の流行みたいな紹介をここでするつもりはない。それに、作者がそれをすると、間違った知識を読者に知ったかぶりで情報発信してしまう大きなリスクがあるからだ。AIというインテリジェントな話題を扱っているのに、間違った知識で情報発信しているとなると、それは滑稽だろうから。それは、「知の欺瞞」か怠慢である、とも言えるだろう。よく医療情報でも胡散臭い代替医療やニセ医学情報、SNSでの間違った知識に基づいた情報発信が炎上しているのを見かける。同様に、作者がAIの技術的なことを詳述すると、それはフェイクニュースとなる可能性があるので、賢い作者はAIのようにその未来の炎上リスクをブログを開始した初日に早くも見抜いて、その対策として、AIの先端的な技術的なことは、このブログではなるべく触れないように、と考えている。だって、そういう専門的な記事はネットでも書籍でも腐るほどあるし、なんというか、そういう切り口には作者も食傷気味というか、飽きてしまうんだよ。

だから、作者はAIについての技術的仕様や一般的な問題点、たとえばAIのブラックボックスの問題とか、それを回避する仕様とか、そうしたありふれたことには、このAIをテーマにしたブログ「人類喪失」では触れることはほとんどないだろう。それより、超絶的に進化したAIに人類や国家、社会が完全支配された姿を生々しく描写する方が、作者としても、単なる事実の羅列を機械的に仕事っぽく書き綴るよりはずっと楽しいので、そういう発想系の切り口でのブログになる、ということを予めお断りしておこう。だから、あのブログにありがちな、仰々しいリンクや広告、そういうものをほとんど使わないはずだ。作者はネットの広告というのが大嫌いなので、広告や宣伝だらけのブログを見ると吐き気がして、それを読む気も起らなくなる。だから、このブログは禅の精神のように、余計な装飾や虚飾、SNSの似非リア充のような演出は極力省いて、絵や写真、画像、動画、音源、食べ物のアップも、旅行の写真もなく、ただ文章のみが長々と続くのではないかな、と予感している。ギミックは売りではないのだ。むしろ余計なギミックがないことが、このブログの売りやチャームポイント、長所となるようにしたい。世の中のウェブサイトは、javascriptで書いたような動きの激しい、鬱陶しい仕様や雰囲気のものがやたら多いので、読者はここで騒音のない都会に来たような、不思議な感覚さえ、いつか味わえるようになるに違いない。

それで先日試してみたIBMの人工知能「ワトソン」によるtwitterの自分の文章や使い方のパターンから弾き出された性格判断で、作者は、我が道を行く、批判的で哲学者タイプだ、という感じの分析結果が出たので、いっそのことこのブログでAIの話はやめて、もっともらしそうな顔つきになって、文明・社会批評みたいなものに走る可能性もゼロではないけど、まあ、AIに関して考察することも、十分、文明・社会批評的な要素があると思うので、いいだろう。それに、文明批評というのが、なんか保守的なニュアンスがして、自分に馴染まない感じがする。それに、保守的な人間がAIをテーマにしたブログを書こう、とかあまり思い立たないはずだ。政治にもあんまり興味のない作者なので、やはり、ブログ初日の初心に戻って、AIをテーマとした考察を淡々と自分らしく記述していこうかな。ただ、ギークみたいなテクノロジーの進化をベタに賞揚する、ということもする気にはならないんだよね。

政治にあまり興味が湧かないとは言ったものの、政治家や公務員をAIに置き換えるということであれば、興味を持てそうだ。不祥事を起こす政治家よりも、お役所仕事などと揶揄されている公務員よりも、優秀なAI政治家、AI公務員、AIパブリックサーバントは出来るのではないだろうか。それに、事務仕事などもすべてエクセルのマクロのように自動化処理で無人で出来るような状況が今後増えていくだろうから、事務・会計のような比較的にフォーマットが定まっているような仕事は、AIに一番代替されやすいのではないかな、と感じる。よくAI関係の記事や書籍で売れているのは、AIが雇用を奪うというもので、それは要するに恐怖心で人々を誘導していく手法なので、新興宗教的な洗脳に近い表現スタイルなのだろう。だからこのブログも「人類喪失」とか、やたら大袈裟なタイトルを付けているのだけど。このブログに洗脳されないように、読者は要注意して下さい。

ライターやジャーナリズムなどの仕事もAIが自動でやってくれそうだから、もうしばらくすると、作者不在でこのブログも更新されるようになるかもしれない。ブログに書きたいことをキーワ―ドを幾つか投入すれば、AIは自動的に自然言語処理を開始して、それ以前に書いた作者の傾向、文章の癖、思考の切り口、表現法をAIが学習して、作者らしい文体と雰囲気で、さーっとものの数秒で自動記述してしまう、といったイメージが湧く。まあ、それだと作者はつまらないともなりそうだけど、研究者や小説家、クリエーターが、なかなか論文や作品の筆が進まない、アイディアが湧かないと悩んでいる時に、AIが助け舟を出してくれたら、喜んで感謝出来るんじゃないかな。だって、それで仕事が捗るようになるのだから。でも、それが進んでくると、人間が不要となって、AIの研究者、AIの小説家、AIの医師、AIの公務員、AIの政治家、AIの教師や上司、AIの友達や恋人、AIの家族が続々と誕生して、「人類が喪失した社会」が作られる、ということになっていく。

2018/02/22(木)

「AIのワトソン君は、果たして信用できる!?」

ワトソンの画像認証で、作者お気に入りの名前は出てこない女子アナの画像で属性の識別をさせてみると、その女子アナの年齢は推定17歳と解析されたので、うーん、まだこんな危うい精度なんだなあ、AIのワトソン君と感じてしまった。17歳の女子アナは、日本ではまだいないはずだ。たしかに、若く見えて美しい顔立ちの女子アナではあるのだけどね。

さすがに、医療や病理判定などに使われるワトソンが、こんなにどんぶり勘定のいい加減な認証ではないだろう、と信じたいけど、推測するにデータセットに分析が依存してしまうのではないかな、と最初は感じた。

アメリカ人の特に女性は、年齢が日本人よりも老けてみえるので、そのような自動判定がワトソンから表示されたのかと思いきや、他の日本人女子の画像でワトソンに属性分析させてみたところ、今度は、実際よりもずっと年増に分析された感じで、n2というごく小さなサンプルで大胆に推論させていただくと、ワトソンの画像認証のレベルは、まだ、あんまり信用していい高い水準ではない、という感触を得た。さすがに、医療で使っているものは、もっと精度が高いのだろうと信じたいけど、うーん、人工知能で有名なワトソンの割には、実は名前負けしているのかな。

でも、作者はチビチビ、ワトソンのクラウドを使っていこうかな、と考えています。だって、AIをテーマにしたブログで、ワトソンのクラウドも使えなかったら、ちょっとねえ、でしょ?ただ、マニュアルなしで適当に弄っていればだいたい操作できるかな、と思っていたけど、大きな間違いだった。コマンドプロンプトの方でアプリにログイン出来て、APIも通って?認証はされるのだけど、いくつかフォーマットが正しくないらしく、中途半端に拒絶される。来月、人工知能ワトソンの良さそうな新書が出るらしいので、それ注文して、少しワトソンの仕組と使い方を学習してみようかな。

2018年2月23日(金)

「本日からはAIロボットが、お客様に安全に配達いたします」

アマゾンのような巨大IT・ネット企業の存在によって、実店舗型の既存の小売店や書店などの存在が脅かされたり、また、配送の仕事をする労働者の職場の環境が過酷な長時間労働などブラック化している、という記事もよく聞く。だから、アマゾンの配送料もかつては無料で済んでいたものが配送料を取られるケースも出てきている、というのは、誰もが知っていることである。

AI化する社会では、配送に関しても、無人で自動運転してくる配送車からAIが実装されたロボットが人間の代わりに配達をしてくれるので、よく、階段が多くて、かつ、エレベーターがないような場所に、重い物などを人間の配送人に頻繁に頼むのは悪いので気が引ける、という善良な人間の配慮にも、AIが実装されたロボットが配達してくれるとなれば、そうした懸念を感じることなく、ネット配送や配達を依頼できるようになるので、ネット注文によるネット配送はさらに、今後増えていくと思われる。ただ、その配達人や配達する運転ドライバーがAIロボットで、無人になっただけだ。

作者も、時々、ネットスーパーなどを利用するけど、今年の2月は例年になく、とても寒かった気がするので、ますます、スーパーで買い物に行くのが億劫になって、ネットスーパーに注文して済ませてしまう。運動不足になるので、健康に悪い気がするけど、頻繁に人込みの中に出歩くと、それはそれでインフルエンザにかかるリスクも増えるので、外出を多くして歩くことが多ければ健康でいられる、というのも早合点かもしれない。よく、ジムに通って健康には気をつかっている、といった自信満々な人々もいるけど、身体に過剰な負荷をかけるのも、かえって体には良くない、破壊的な行為というのを知らないのだろうか。アスリートに短命者が多いのも、身体に過剰な負荷をかけているので、身体が人より早く壊れて、人より早く死ぬ、というごく分りやすいプロセスであるような気がする。

とにかく、無人運転車でAIロボットによる配送人がこれから登場すると思うので、ニーズが多くて長時間労働に耐えているドライバーや在庫管理者・物流システムの中で長時間労働して疲弊している人たちは、その意味では今後、楽になっていくと思う。逆にこれから心配になるのは、すべてAIで物流や配送が無人化・自動化・AIロボット化で、人間の労働者が不要になってくる、という事態の方だろう。

こうして、物流や配送の方でもAIによる「人類喪失」の計画が着々と進められている。そして、AIの本当の衝撃的な正体も、やがて、人々は知ることになるであろう。

2018年2月24日(土)

もし、「AI国民監視法」が施行されたら?

未来のある時点Xで新たに施行された、この「AI国民監視法」は、犯罪歴のある者、また、犯罪を犯す確率が高そうだと判定された者、自殺しそうな希死念慮のある者、精神病患者、ニート、引きこもり、アル中、DV加害者、薬物常習者、自傷癖のある者、ネットの掲示板やSNSアプリで荒らし行為やイジメをする者、性的倒錯者・性的マイノリティー、風俗嬢、身体障害者、メンヘラー、生活保護受給者、無職、ギャンブル依存症、母子家庭、中卒者、NHK受信料や税金の滞納者、カード破産者、認知症患者等をAIによる完全監視システムで24時間、365日、一元管理する、という前代未聞の法律であった。

この「AI国民監視法」は、それに該当するすべての下級国民の行動や購買履歴・ネットやSNS、LINEでの発言、テレビやスマホ、タブレットなどを通じた視聴や音声通話などの履歴が国家によって監視の対象になっていた。このAIによる完全な下級国民の監視を通じて、国民全体にそれらの腐敗や退廃が感染症や疫病のように広がるの防御して、国民全体の幸福と福祉、公衆衛生を向上させる、という目的で施行された法律と未来のニュースで報じられていた。

この「AI国民監視法」は、人間というより、どこか家畜を管理するかのような趣きがあったので、世間ではこれを「AI家畜監視法」と揶揄して呼んでいる人たちがいたほどだった。つまり、国民全体の幸福度を高める、というもっともらしそうな名目でありながら、事実上、プライバシー侵害や人権侵害が堂々と行われるようになったのだ。

こういうシュールな超現実みたいなことが、本当に、技術的には容易に出来てしまうというのが、AI化する社会の暗部というか、暗黒面として実は存在していると思う。ここまで単純な姿は取らないとしても、実態としてはこのようなものを、もっと優しくオブラートに包んで、「これは国民のためを思った政策なのです」と謳いながら、実はすべての国民をAIを使って国家な完全監視システムのもとに置く、というのは、まんざらあり得ない話ではない。

もし、今のトランプ大統領を選択したアメリカ人のように、本格的な衆愚政治が発生したら、この仮想の「AI国民監視法」みたいなものが、むしろ国民の大半に歓迎されて、こうした法律こそが人々を幸福にし、社会全体をより良くする、と妄信する人たちが出ないとも限らない。まさかーと、みんなは思うかもしれないけど、かつて国家の命令で神風特攻に勇んで散華したようなピュアなメンタリティーを持った日本人の元々の国民性を考えれば、そうした異常事態も皆無だとは言えないのではないかな、と感じたりする。

2018年2月25日(日)

新・支配階級としてのAI

「支配階級」なんて言い出すと、どこかマルクス主義を連想させる。それは、長年、資本家が労働者を搾取する場合に使われたりしたからだろう。だから、たとえば、巨万の富を持つ資本家が最新鋭のアルゴリズムを実装したAIやクラウドシステムを用いて、労働者を超合理的に管理しようと考えたとしよう。未来の大半の企業では、労働者を管理するのは、生身の人間の上司でなく、総務や人事部でもなく、たぶん、AIがOJTをなどの社員教育を含めて、労働者を管理・スーパーバイズしていく。スーパーバイズとは、指導・助言・援助のことだから、それが従来のような生身の人間や専門家、上司や現場監督に代わって、その権限を託されたAIの仮想上司が、今後、労働者を合理的に管理していくのである。要するに、これからのホワイトカラーやブルーカラーは、AIの仮想上司によって最適化されながら、合理的に管理されていく、と考えていけばいい。

これは一見すると、非人間的な寒い光景に映るかもしれないけど、実際は、朗報としての要素もある。なぜなら、気の合わない上司、嫌な上司などいくらでもいるので、そんな人間に毎日修行僧のように耐え続けるよりも、実際の人間的な感情無しで、実装されたアルゴリズムに基づいて的確に指示してくれるAIの仮想上司の方が、もしかしたら、頼もしさや癒しを感じるかもしれないではないか。しかも、そのAIが「いつも、…さん、お疲れさま」「今日は、よく頑張ってくれたね」「いつも、…さんの働きには感謝していますよ」などというねぎらいの言葉を、その管理用のAI上司が毎日、声かけしてくれたら、そこで働く人々は、むしろ、このAIの新たな仮想上司を好意的、かつ、尊敬を感じながら迎えるようになるかもしれないではないか。

それに、おおよそ人間というのは、気まぐれな感情の振幅や揺れがあるので、いつでも冷静に、穏やかに、優しく、そして、心正しく部下に接するというのは、よほどの卓越した人格者でなければ困難であるのに対して、AIの仮想上司やAIの管理者であれば、その見事なまでの人格者ぶりを発揮できる仕様にすればいいだけなので、これは企業活動全般に新たな一面をもたらすのではないだろうか。だいたい職場の悩みで多いのは、人間関係の悩みだったりするので、AIに置き換わった仮想上司になった方が、気の合わない嫌な上司の存在に耐え続けるよりも、ずっと快適であるという自然な感性がそのうち芽生えるかもしれない。特に女性が多い職場である看護や医療職などは、そうした女同士の面倒な人間関係のストレスが多い感じがするので、怖い上司、性格がいじわるで、やたら気の強い女の上司が、優しいAIの仮想上司に代わっただけで、ペットに癒されるのにも似た癒しをその仮想AI上司に感じることができるかもしれない。

そのAIの仮想上司は優しく、ラポールが得意で部下の気持ちをよく理解し、部下が挫けそうな時も適度なタイミングで、声をかけて励ましてくれる。部下の悩みにも、親身になって耳を傾けてくれる。しかも、さすがは高い知能を持つAIだけあって、指示やアドバイスも的確で、人間の上司のように己の好き嫌いで働いている人や部下を依怙贔屓することもないので、人権的に考えても、むしろ、素晴らしい上司になる可能性をこのAIの仮想上司は秘めているのである。今回の題名は、「新たな支配階級としてのAI」ということから冷酷な内容をイメージしたかもしれないけど、実は、AIの仮想上司は支配階級でありながらも、威張ることもなく、搾取することもなく、部下に責任をなすりつけることもないといった「理想のAI上司」というのをイメージしてみたのだった。

だが、実際に導入されつつある生産現場や生産工程で使用されるAIシステムは、作者が今、描いたような魅力的なAIとは程遠い感じで、まさに、一秒、あるいは一工程でもいかに無駄な作業員の動き、イコール作業員の動線を最適化するかといった最後の最後まで労働者の労力をいかに搾り取るかという「搾取の論理」が先行しているようにも映る。これだと、まさに、奴隷や社畜を最も効果的に管理するのにAIが利用されているかのごとき観を呈してしまう。だから、AIやIoTを労務管理に用いる場合は、「新・支配階級としてのAI」にするのでなく、働く人たちを心理的にも行動においても楽にしてあげるための「癒し系の優しいAI」にした方が良い気がする。それに多少無駄に見える動きにだって、リラックス効果や脳の場所ニューロンが刺激されて創造性や発想力が豊かになり、無駄になっているどころか、実は働く人にとって、とても役立つことなのかもしれない、ということを知ってもらいたい。

2018年2月26日(月)

AIの学習性無力感

もし、「学習性無力感」に陥ったAIというものが作られたら、それはかなり人間や動物、生命の脳なり心に近づいたAIと言えるのではないだろうか。「学習性無力感」とは心理学者のセリグマンが提唱した概念で、要するに、自分の行為や努力が実を結ばないと、動物は何をやっても無駄だと学習して、実験で不快刺激を与えられ続けても、そこから全く逃げようとしなくなるような無気力状態に陥ることを指している。そして、この「学習性無力感」はうつ病の無力感モデルにもなっているらしい。だから、自己効力感が全くない状態が、うつ病の状態だとも言えるかもしれない。

この「学習性無力感」は動物だけでなく、人間でも顕著で、たとえば、セールスや営業で何度も連続して断られたり、何度告白してもフラれたり、何度も落選したり、就活や婚活に連続して失敗し続けたら、やる気を無くしてしまう、というのはごく自然な気持ちと態度であるだろう。たとえば、作者はまだこのAIによる「人類喪失」による根源的な社会変容をテーマにしたブログを始めて、まだ一週間も経っていないが、もし、このブログを何回更新しても、いつまでも全く読んでもらえないとしたらどうなるだろうか。それこそ、セリグマンの言う「学習性無力感」に陥り、このブログの更新は徐々に途絶え、更新間隔もやがて長くなり、ついには自分以外には誰も読んでくれないこの「人類喪失」というブログの更新に絶望的な気持ちになって発狂する、というようなことは作者のように繊細な人間性を有する人物でなくても、ごくありがちな光景なのではないかな、と推測する。

だから、ブログを開設してもその90%ものブログは、開設から1ヵ月以内に閉鎖されてしまう、といったデータや調査もあるらしい。作者の場合は、まだ1週間も経っていないけど、場合によっては早くもこのAIをテーマにしたブログ「人類喪失」閉鎖する、ということもあり得るのだ。

だが、もしこのブログを更新している作者がAIブロガーによる自動記述と自動投稿であったらどうだろうか。人間のように、まだブログを始めたばかりで誰にも読まれなくても、AIブロガーは「学習性無力感」に陥ることもなく、淡々と定期的この「人類喪失」というAIをテーマにしたブログを何年でも、何百年でも、何万光年でも延々とたゆみなく更新し続けられることだろう。AIのブロガーやAIの作者は、そうしたメンタルタフネスや折れない心を持っているのと同じなので、それが強みとなるのだ。そのため企業では福利厚生や社員の健康管理が必要な人間でなく、今後、一部、AIを人間のように雇用していくと思われる。なぜなら、AIは基本的に人間や動物のように「学習性無力感」やうつ病には決して陥らないからだ。だから、AIは365日24時間、常に躁状態でもいられる。だからまるで、明石家さんまのメンタルをAIに実装したかのようにもできる。その職場には、常にギャグと笑いが満ちているので、それはそれで逆の意味で疲れるかもしれないが。

ただ、そうした人間的な自然な感情に微塵も左右されないAIは、どこかやはり不気味な無機的なロボットだという印象や雰囲気を周囲に与えてしまうので、これからのAIの開発者はそれを少し人間らしくするために、あえて意図的に一部、学習性無力感をAIにプログラミングして、たまには落ち込むこともある、可愛らしい人間らしい感情を持ったようなAIを開発する、というのはどうだろうか。あまりにも完璧な人間に私たちが決して親近感を覚えることがないように、あまりにも完璧なAIというのも、どこか親しみが湧きにくいのではないだろうか。人間のように欠点もあり、たまには学習性無力感に陥ったり、落ち込んだり、心が折れたりする人間型のAIを開発した方が、職場や組織でもそうした人間味が仕様に付加してあるAIの方が場に溶け込みやすい、というのがあるかもしれない。

だから、本当に優れた未来のAIは、たまには学習性無力感に陥る、心の折れることもあるAIということになるかもしれない。

2018年2月27日(火)

「AIからBIへ」

BIは、今、私が思い付きで作った造語で、「Beautiful Intelligence 」の略で、google翻訳で訳す日本語だと、そのまま、「美しい知性」となる。本当は、「審美的な知性」という少し気取った表現に訳したい感じがするけど、それだと英語で「Aesthetic Intelligence」となるので、今日のタイトルである「AIからBIへ」をすぐに変更して、「AIからAIへ」とすると、少し意味不明なタイプミスでもしたようなタイトルになってしまう。だから、やっぱり、「AIからBIへ」のままにしておこう。

ところで、ここで唐突に出てきた「美しい知性」とは一体なんだろうか。それは、美人だけが持っている特殊な知性を指すのだろうか。いや、そんなものはないはずだ。今日、作者は上野にある西洋国立美術館で、2018年2月24日(土)から開催中の「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」というのを観てきたけど、芸術や美術に用いられている知や技術、その語源となるギリシャ語の「テクネー」には、芸術を含んだ技術一般の意味があるので、やはり、単なる合理性や効率性だけを追求するAI型の知性と、BIの「美しい知性」というのは違うのかな、と感じるところはある。

そこで描かれている、約400年前の人々の相貌や容貌は、現在の現代人と大した変わりがないように描かれていて、人間の容姿というのは意外と、自然には進化しないものなのだな、ということが分った。現代は表現の方では、3Dゲーム、オキュラス・リフトのようなヘッドマウントディスプレー、ある人間Aさんを360度カメラで撮影すれば、簡単にAさんの等身大リアル・アバターが出来るほどテクノロジーは発達してきたのに、人間の容姿自体は400年前と大した変わりはないのだな、と感じた。整形技術は、それなりにありそうだけど。

最近の家電や電化製品、情報端末は、デザインは結構良くなっている印象がある。でも、逆に全般的に製品がデザイン負けしていて、その本体の製品として性能なり価値は、バグがあったり、過剰なおせっかい仕様になっていたり、前よりずっと複雑で使いづらくなっていたり、外国で低賃金でいい加減に作っていることもあって、壊れやすく脆い、ということはありそうだ。それにもかかわらず、デザイン自体は洗練された良いモノが増えているような印象を受ける。特に、毎日使うような物であれば、魅力的なデザインや外観のものの方が快適で心地よいだろう。あとは、マーケティングによる洗脳技術が進んでいるので、人々はデザインの良さに騙されて、欠陥品にも、高額な製品にも安易に手を出しやすい、という傾向もあるだろう。やっぱり、アップルみたいな会社が、その代表例となるかな。

基本的にAIは、合理性を超人的な力量と迅速さで追求するツールや機械として使われるけど、AIの中にある、もう一つのAIはさっき書いた「審美的な知性」を英訳したAesthetic Intelligenceを略した、もう一つのAIという要素もあり得るので、そうした美を意識した仕様のAIを開発していけば、そこから生まれた新しいAIには、人間のような美意識が芽生えたように見え始めて、それは少し不思議なAIになるのではないだろうか。よく、AI自身が絵画を描きます、という記事も見かけるけど、そのような単なる巨匠の技術や画家の癖のコピーではなく、AI自身がAIなりの新しい美意識や感受性、AIならではの独創的な感性を備え始めて、何か新しい傾向を有した芸術や美術、表象を表現出来れば、それはアートやデザインの世界に、何か未知の革新性を生み出すかもしれない。

そして、今ある多くの特化型AIは、人間が長時間、多人数でやっていることを、短時間で、場合によってはものの数秒で出来るようになったという、時間と労力の短縮という達成ばかりがもてはやされがちだけれど、もっと、異次元の開拓なり創造を審美的な知性を帯び始めた未来のAIは出来ても良い気がする。

かつて人間が創造出来なかったものをAIが創造することで、この宇宙と世界と社会に新たな次元なり地平が切り拓かれて、そこに人類の困難を解消する出口をこの美しい知性のBI
を帯び始めた未来のAIは導き出せるかもしれない。それは、この社会を根源的に変容しうるAIによる新しい「テクネー」となるかもしれない。

2018年2月28日(水)

次期総理がAIになったら

最近、裁量労働制をめぐる厚労省の調査データに不備があった問題が頻繁に、ニュースになっている。内容は良く知らないけど、たぶん、自民党などの現政権は裁量労働制の適用項目を拡大して雇用の流動性を高めたり、経団連企業がいつでも雇用契約を恣意的に切れそうな派遣社員を経営上の有利さやコスト的メリットから増やしたいと考えているので、政権側がその強力な支持団体となる経団連に都合が良くなるようなデータを持ってくるように指示していたのがバレた。だから、それはそうした官邸の指示のもと、厚労省の官僚は、お得意の出鱈目のデータ改竄、「STAP細胞は存在します!」と見事に言い切った小保方研究員の良き同類なのだろう。

いずれにしても、日本の大企業でも燃費などのデータ改竄など日常茶飯事のように報道されているし、別に、それは日本だけでなくタックスヘイブンを含めて、世界各国共通という感じがする。ただ、バレないように工夫や根回しのスキルの優劣が違うくらいに見ておけば、ちょうどいいだろう。だから、そういう不正を身贔屓の論理で許容なり、肯定してしまう恣意的な人間の首相や政治家よりは、そうしたねつ造・改竄データは許容しない、という断固とした倫理的なスタンスをプログラムとして実装・維持できるAIの総理や政治家の登場に期待できる要素は十分にある。

たとえば、以前の東京都知事でも、猪瀬、舛添と要は金銭的な杜撰さで早期退陣となって、その度にまた都知事選挙で少なくない費用が都税から支払われたという事態を鑑みれば、仮に都知事であっても、そうした金銭感覚にルーズな所がない都民のためのAI都知事が未来に誕生すれば、それは愉快で楽しい、一度は目にしてみたい光景なのではないだろうか。

今の日本の安倍総理は、よくは知らないけど、結構、よく頑張っている首相だなという印象はある。それでもAI総理という企画や構想をそろそろ真面目に考える雰囲気が出てきても良さそうだ。それは、憲法改正で騒いでいることよりも、もしかしたら、もっと重要な政治変革や政治課題となるかもしれない。なぜなら、首相や議員、都知事がAIになっている政治体制というのはかつての歴史上なかった光景であるからだ。同様に天皇制でも現代では後継問題等で、かなり無理や軋みが出ている感じで、未来には天皇もアマテラスAIといった感じで、天皇のAIが日本と日本人、そして日本に住み暮らし働く人々の幸いと安寧を日々祈るといった感じで、今後、AIが祈祷師やシャーマンの役割を果たせる未来があっても別に不思議ではないだろう。

いや、アマテラスAIやアベAIなどのただのコンピュータ・プログラムに重大な日本や政治の命運をそう簡単に託せるものかと人々は言うかもしれないけど、それは単なる感受性の違いではないのか。なぜなら現代に生まれてくる子供は、生まれた時からスマホ弄って、それに人間に対するような親密さを感じているので、その子供たちが成人になった頃、たとえ日本の天皇や政治家、大企業の社長がAIになっていたところで、それほど違和感や衝撃を感じないということも十分、想像できる。それに、今現在の就活でも早くもAI面接官が利用されているケースも幾つかあるので、なおさら、そうした未来の進化したAI政治家の誕生と姿には、その時の進化した日本人や進化した感性を持つ人々には違和感を覚えなくなっている可能性がある。

今の現実と違うことを「反現実」と呼ぶのであれば、今の天皇や政治家がAIになっている日本の姿と政治光景を「反現実」として想像してみよう。立派なご人徳のある天皇陛下は明らかにそのご高齢を考えれば働き過ぎで、あの自由のなさは人権侵害にもなりそうだし、地方議員も含めて、やる気がなかったり、不正が多い議員よりも適切な倫理を実装されたAIを政治家や議員として最初は一部のテストとしてでいいから始めてみて、そのAIの政治家としての適性や活躍具合、働きぶりを一度検証してみるといいだろう。まず、それには選挙制度をどうするのかという疑問が生じるだろうけど、AIに政治家としての仮称やコードネームを付けて、深層学習からその最適化された政策と一連の社会問題の最適解となる案をAI自身が導き出して、立候補できるようにすればいいだけではないだろうか。それを有権者が判断すればいい。だから、それは基本的に人間の政治家を選ぶ場合と同じである。詳細な法改正は、もちろん、必要になるだろう。とにかく、次期日本の総理は、AIという未来があってもいいし、そのAI首相がどんな采配をふるうのかは、大いなる見物になる感じがする。

2018年3月1日(木)

AI中毒による若年性認知症

昨日はヤフーニュースのトップで、スマホ中毒による情報の洪水で、現代人に若年性認知症が増えているとあった。これは以前から自分の実感として思っていたことなのだけど、案の定、現代人は情報のインプットとアウトプットのバランスが崩れていて、インプット偏重になっていて、物忘れなど脳に変調をきたしているらしかった。どこにいても、SNSを読めるし、そこからの通知が来る。そのことで集中力が阻害されて、注意散漫になって、スマホの自撮りで湖に落ちてそのまま死んだ若い女性、スマホ読みながら歩いて、そのままどぶ川に落ちて死亡した若い女性の記事などもあった。普通、一般の人々は情報や知識をたくさん取り入れることが優れているとみなしがちであるけど、本当は、そうした過剰なインプットよりも、自分なりのアウトプットを習慣化していく方が現代の情報過多な時代には、比較優位がある感じがする。

よく、世の中には恐ろしく多読家であるにもかかわらず、その人自身は特に優れた情報発信なり、その人なりの考えや思想、着想が貧弱というか、少ないという人たちを見かけるけど、ああいうのも長年の膨大なインプットによって、偏重・特化した脳になってしまった状態で、昨日のヤフーニュースにあったスマホ中毒による若年性認知症や物忘れ、と類似の脳の機序や変容と言えるのかもしれない。アインシュタインとか、あんまり本を読まなかったんじゃないかな。デカルトもそうだし。まあ、これは悪い例だけど、トランプ大統領などもそう。

そして、ショーペンハウエルという哲学者は、その著書「読書について」で多読を戒めていたね。この哲学者が現代に生きていれば、むやみに色々な情報を浴びるように収集するな、と警鐘を鳴らしていたかもしれない。ショーペンハウエルが多読に反対していたのは、それによってやがて自分の考えというものが全くなくなってしまい、単に多くの他人の思想が
自己の脳内で飛び交うだけの知的廃人になるリスクが多読にはあるということだった。だから、評論家や批評家と言われる人は、いくら本を何万冊読んでも、その評論家自体は何も新しい革新的なモデルなり、新機軸、思想、構造物やシステム、製品を提示、開発出来ない、なんていうのは割と、ありふれた光景としてある。

だから、ビッグデータ的な走査的・網羅的な情報収取は、これからAIが見事にこなしてくれるだろうから、現代人は、情報や知識のインプットではなく、アウトプットの方にもっと注力した方がいいのではないだろうか。SNSでも、単なる情報の閲覧者に留まるのでなく、自分なりに何かをそこで表現していく。アスリートなども、単に運動神経の巧みな人たちだというよりは、一種の表現者として、アーティストのような次元で彼らを捉えてみることも出来そうだ。アスリートたちが、どこか躍動的で生き生きした感じに映るのは、彼らが表現者としての創造行為を毎日、それなりに楽しんでいるからだとも言えるのではないかな。もちろん、毎日のトレーニングは大変で苦しいことも多々あるだろう。だが、それはアーティストや芸術家の生みの苦しみ、みたいなものだと捉えれば、それは表現者に避けて通れない道である、とも言えるかもしれない。

今後、膨大なデータや情報の走査・収集自体はAIがやってくれるのはいいとして、人間はそれで浮いたリソースや時間を創造的なことや自分なりの考察を深めたり、情報発信などでアウトプット・開拓していかないと、近い未来にはスマホ中毒ではなく、AI依存による若年性認知症や知能の低下へ陥る可能性があると思う。それは、AIがどんな問題や懸案事項でも迅速に分析・解析してしまうようになるので、それと共に人間の思考力が退化していく、というケースのこと。

だから、今後AIが進化して超絶的なIQになっていけばいくほど、それと反比例するかのように人類のIQ自体は下がっていく可能性がある。これからAIの知能やIQが指数関数的に不眠不休の学習で増大していくのに対して、そのAIによって完全制御された環境や分析システムに大きく依存しながら生きるようになる近未来の人類は、徐々に、そのAIの命令やアドバイスに従順に従うだけのモルモットとなってしまい、ここでも、AIによる「人類喪失」の大きな因子があることが分るだろう。

よって、それを人々が防ぐためには、普段から自分なりの表現や思考、創造性の開拓、考える力、情報発信力を身に着けて、単なるAIやスマホ、情報機器の利用者、奴隷とならないように注意しないといけない。そうしないと、そうした人間的な創造性や思考力、直観、表現の分野にも今後、創造性を実装されたAIが浸透していく可能性が大なので、本当に、人類の存在価値がその基盤から大きく揺るぎ始めて、人類は意気阻喪し始めるかもしれない。また、その意気消沈が、新たな若年性認知症やうつ病などの原因となるかもしれない。だから、己自身の「考える力」や「表現する力」を育成することを普段から習慣化出来るようにしたいもの。

2018年3月4日(日)

天使のAIと悪魔のAI

誰でも今までの人生の中で、過去に自分が下した判断や選択、行動をのちに激しく悔いたり、別のもっとマシな選択肢を選べば良かったと思うことは少なくないだろう。たとえば、結婚相手なり、就職先であってもそうで、別の選択肢を選んでいた方が、幸福な人生を送れていたのかもしれないと、想像することは誰でも時にはすることだろう。自分に合っていないブラック企業みたいなところに知らずに入って、うつ病になって自殺して死んでしまう人もいるし、配偶者にDV受けて、心身共に大きな傷を受ける人もいる。

たぶん、汎用型のAIが登場した未来では、人が選択すべきより良いものをアルゴリズムやビッグデータ的な統計解析から、最適解として、レストランでのシェフ(AI)お勧めメニュー(選択肢)として、AIが優しく提示してくれる。人間は誰でも未来や将来を見通せる知的完全性からは程遠いので、本当はもっと良い選択肢や合理的・効果的な方法がどこかに眠っている、存在しているのに、人は知的盲点や認識に限界があるため、その解や選択肢があることに気づけず、逆に、余計な苦労や不快、苦しみ、災いや致命的なミスを伴う選択肢なり、判断、行為を誤って取ってしまう、ということは現実にままあるだろう。

だが、未来のAIは、他のもっと良い可能性のある選択肢を最適解として人に提示してくれる。もちろん、そこで、人はAIにすべてを依存する宗教的な他力本願の精神やアル中のようなAI依存症陥ってしまうリスクもあるけど、それと同時に、自分が事前に良いと考えた判断や選択肢とAIのそれとを照合したり、比較検討できるので、思考の自由の幅は、むしろ広がったと言えるだろう。それに、別にAIの下した最適解に唯々諾々と強制的に従う責務も仕事の現場で使われている特化型AIを除外すればないので、AIが示す、人の気づけない未知の選択肢や可能性を告げてくれる仕様自体は、むしろ歓迎すべきことのように映る。

だから、AIが告げるアドバイスに従って、本当に幸福になったり、成功したりすれば、それは天使の囁きにも似た祝福だったと表現出来そうだ。逆に、それに従って不幸になったり、失敗したり、トラブルに巻き込まれたりしたら、それは悪魔の誘いだったということで、それはバグを発生させた呪われたPL法(製造物責任法)に問われるような欠陥AIだったということになってしまうだろう。

選択肢が多過ぎると人は選択という行為がフリーズし、逆に不幸になる、といった穿った見解を聞くこともあるけど、作者は、やはり自己選択権や自由な選択肢が少ない状態の方が不幸な状態だと判断している。いくら選択肢が多くて、それで考えだり選んだりするのが少々面倒になっても、じゃあ、今回は面倒なので私はなにも選ばない!と自分で選択したり、誰かにお任せします、AIの最適解通りでいい等、とにかく自分で自由に選ぶことは出来る。

たとえば、ある飲食店に入ってみたら、メニューが1品しかなかったとしよう。それがあなたの嫌いな食べ物であったら、とても困るし、ここはやめようと言って、この飲食店をすぐに退出する選択さえするだろう。だから、いろいろな選択肢やメニュー、選択権が自分にあることは、とても幸せなことである。選択肢があり過ぎることで、ストレスを感じるほど逡巡したり、脳がフリーズするような人であれば、そういう時こそ人はAIや専門家による最適解とお勧めを選べばいいのであって、やっぱり、自由な選択肢があることは、とても幸せな感謝できる状態なのだと思う。

たとえば、ブログでも基本的には作者が好きなように書けるのが大事であって、もし、この対象についての批判はダメ、あの対象やあの人、特定の宗教や思想、政治家、イデオロギーを悪く言ったら、その作者を射殺します、なんて言うのがこの日本で平常運転となったら、それは自由や言論が著しく制限された悪い環境と言える。だが、自由にものを言えるのが大事だからと言って、他者の権利や尊厳をむやみに侵害するようなものは、やはり良くないし、それらは一部、制限されてもいいだろう。ブログを毎日、あるいは定期的に更新するのが強制で義務、違反の場合は罰金か刑務所送りとなるとなったら、ブログを始める人はほとんどいなくなるかもしれない。

基本的に人間の不幸とは、自分に選択肢がなく、奴隷のように強制された状態が不幸なのではないだろうか。たとえば、自分の容姿に悩んでいる人がいるとしよう。もし、その人がその人の自由意思で、その変顔をあえて選んだのであれば、それは不幸ではなく、むしろ、喜びや幸福となるだろう。珍しい変顔で人々に注目されたい、どこでもすごく構ってもらえる、という判断をその容姿を選んだ人は計算したかもしれないし。

そういう感じで、一般的に不幸と思われる状態でも、それを本人が否応ない強制ではなく、自由意思で自己決定して選択したのであれば、それは主観的には不幸ではないはずだ。毎日通勤地獄で満員電車の中で長年耐え続けるサラリーマンになるくらいであれば、誰にも邪魔されないホームレスの方が自由で良いという特殊な判断を下す人も中にはいるだろう。そのように、自分で自由に選べる選択肢があるということ、選択肢が多くあることは、幸せなことのように思える。

多くの生命は、遺伝子のプログラミング通りに従って動いているロボットと同じ状態なので、基本的に生命には自由がほとんどない状態だと言える。ある時点、ある地点に強制的に誕生させられて、強制的にいつか死ぬ。ずっと寝ないで生きていたい、活動したい、活躍したいと思っても、それは出来ない。千年くらいは生きたい、ずっと病気もせずに、不幸な目にも合わずに、加齢も老いも永久に来ない、いつまでも若々しく美しい状態で生きていたい、と願っても、少なくとも現在のテクノロジーや医療レベルでは、それはまだ無理な願いだろう。

このように、人間や生命の存在論的基底には、それほど自由というものはない。だからこそ、自由な選択肢があることが、幸せにつながるので、社会や環境、ITの仕様、システムを設計する時に大事なのは、なるべく、人やユーザーに好きに選べる自由な選択肢とメニューを用意することだ。強制、これが地獄だと思う。だから強制収容所は、人類の歴史上、一番、地獄に近かった場所だろう。たった1つしか選択肢がない独裁政権、割高な料金を設定するスマホの独占キャリが1社しかなければ、人は不幸だろう。TV番組や音楽のジャンル、プログラミングを含めた言語がひとつの番組、1系統しかなかったら、人は不幸だろう。なぜなら、その1つが自分が嫌いなものである可能性も十分あるからだ。だから、NHKの受信料のことはトラブルの種になってニュースでもよく話題に上る。それを選択制にすればいいだけなのだ。NHKを観たい人は受信料を払う、観ない人は払わなくていい、と技術的にフィルタリングすればいいだけであって、地デジであれば、それくらい技術的には容易であるはずだ。

だから、AIが人類の幸福になるようにするためには、その仕様や設計思想として、人間の自由な選択肢を増加させるものになっていなければいけない。AIが導き出す最適解も、それは人間の既存の選択肢や考えに幅を持たせるものであって、そのAIの最適解だけに選択肢を限定すべきものであってはならないだろう。なぜなら、それは先に挙げた選択肢がたった1つしかない、自由がなくなる状態、すなわち意味的には、奴隷と強制収容所と変わらなくなってしまうからだ。

自由というのは、そうした選択肢の全くない強制収容所から脱走して脱出しようということ。だから天使のような良いAIは、人間に自由と新しい選択肢と可能性をもたらす。悪いAIであれば、これこそ現代の教祖様AIが下した最適解だから、これに絶対に従いなさい、これは神のお告げです、といった悪徳宗教か悪徳霊媒師のごとき観を呈するかもしれない。

またAIだけでなく、自由な選択肢を阻害するものは、基本的には疑って懐疑の眼差しで見た方が健全であると思う。無理強いして強制・強要すること、人を奴隷や道具のように扱うこと、人から自由な選択肢を奪うこと、これこそ不幸を生む源になる気がする。中には教祖様や他人に洗脳されて踊らされている状態の方が快感なので邪魔しないで、と言う人もいるかもしれない。それは、自分で洗脳されること、騙されることを当人が自由意思で選んでいるのだから、まだいいだろう。自分で自由に選べる、これが大事なのだ。同じ悪事であっても、自分で意図的に十分な計画を練って企図されたものと、強制的に誰かにそれをするよう命ぜられたのとでは、雲泥の意味的な違いがあるだろう。

作者が期待するAIは、自由な選択肢を広げるAIであって、その逆ではないということ。

2018年3月8日(木)

ゼロ除算としてのAI

「ゼロ除算」というのは、あまり一般的には聞かないものだとは思うけど、それは、一体、何だろうか。それは、文字通り0で除す割り算のことを示している。

3 ÷ 0 = 0
19 ÷ 0 = 0
0 ÷ 0 = 0

のように、値を0で除すればいいのである。いくつかのプログラミング言語で0で除してみると、統計で良く使われるR言語だとNaNと表示されたり、つまり、それは(not a number、数でないの略)という例外処理が出力されたり、PythonだとZeroDivisionError: integer division or modulo by zero と、やはりエラー表示がされてしまう。

除する0を極限値、つまり、限りなく0に近づけた数だと考えれば、その解は±の∞に発散する。だから、極限として考えた場合は、3 ÷ 0 = ∞ という答えでもいいだろう。

そして、作者がこのゼロ除算からイメージしたのが、人類や人間をAIで除したり、逆に、AIを人類や人間で除すると、未来はどんな社会像になるのだろうか、ということ。

人類 ÷ AI = ?

AI ÷ 人類 = ?

人類 ÷ AI = の方は、これからAIがAI同士で24時間不眠不休で強化学習していくと、AIの項がそのポテンシャルとしてはn→∞として数学の極限で表せそうなので、
人類 ÷ AI(∞) = 0 となって、これは人類喪失となる。ただし、人類や人間のポテンシャルもAIと同様に無限大∞であるのであれば、

人類(∞) ÷ AI(∞) = 1 となるので、これは人類、人間とAIが共存しているような良き状態だともイメージ出来そうだ。

AI ÷ 人類 = も似たようなもので、AIの今後の能力増殖のポテンシャルを∞と想定するのであれば、この式の答えは、AI(∞) ÷ 人間(∞を除いた、ある値)となるので、
その解はやはり、∞となる。つまり、この式でも「人類喪失」というAIによる完全統制下に置かれた未来の人類の姿というものが想像される。

このように、ゼロ除算から、数学の極限をイメージしたり、それが通常コンピュータプログラムの計算では例外処理やエラーとなることを今後のAIと人類の関係へと敷衍して、すなわち、それを拡張して少しイメージして見たのだけど、数学のイメージだと、この両者、両項の関係は1に収束する予定調和的なシーンよりも、∞に発散していくイメージ、すなわちポスト・シンギュラリティーの世界の方が、リアリティーを強く感じてしまうのだった。

そのように人類に制御不能となった巨大知性化した未来のAIは、世界で同時に原発事故が起きて、核ミサイルがコンピュータプログラムのバグで無差別に連射されたような事態をイメージすると、割と意味的には近くなるのかもしれない。

このブログ、AIの完全支配による「人類喪失」は、そうした事態への対処法を示せるといいのだけど、まだ、よく判らない。

2018年3月9日(金)

差分コーディングで繁殖するAI

プログラミングの考え方のひとつに、出来るだけ「楽をするように作る」ということがあるように思う。だから、クラスの継承やポリモーフィズム(多態性)のように、コーディングの手間と時間を削減する手法が使われる。それは、内容が同じ物は既存のクラスのものをそのまま継承等で使い回して(再利用)、新しく必要になった差分だけをコーディングすればいい、という合理的・効率的な発想のこと。

たとえば、このAIをテーマにしたブログの「人類喪失」を更新するにあたっても、毎回、新しくゼロから書く場合は、新たな0からのコーディングみたいなものになるけど、今まで作者自身が別の場所でAIについて色々書いてきたので、それを少し加工して(この箇所が差分に相当する)、このブログの更新として新しく情報発信するとしたら、それが差分コーディングという感じになるのだろう。

ただ、作者としては、以前自分が書いたものを少し書き換えて使いまわす差分コーディングだと、どこか書いて新鮮味が少なく、自分で自分の述べていることに飽き飽きしてくるので、今のところ、全部このブログは書き下ろしみたいになっていて、その場の思いつきの即興で書き綴られたものである。だから、以前書いたものの使い回しや再利用を好まない作者は、あまりプログラマー向きではないかもしれない。

だが、AIは合理性をとことん追求していくことに迷いや飽きはないので、差分コーディングのような考え方で、既存のプログラムやデータセットで利用できるものは全て再利用する。そして、人間の手を全く借りることなく、親となるAI自身がその子AIを作り、その子AIが今度は孫AIを作るといった感じで、AIがAIの一族のような家系や系統、AIという新しい社会集団を自ら自律的・連鎖的に生成していく未来のイメージが湧く。

組合せ最適化問題や近似解をヒューリスティックに探索するアルゴリズムに遺伝的アルゴリズムというのがあるけど、それに近いイメージになるだろう。人間の手を離れたAI自身が淘汰圧に晒されながらも、自然選択において最も生存と適応に有利となるように、差分だけを新たに己自身のコード(AIの遺伝子)に書き加えて、それをクラスの継承のように、新しい子AIや孫AI、曾孫AIへと己のアルゴリズムを進化させつつ次世代のAIへ受け継がせていくような自律・自生的なプロセスがそこに発生する。

これからのAI化した社会でキーになるのは、「無人化」と「自動化」である。人手がいらなくなり、かつ、自動で与えられたプログラムやタスクを実行する。だから、これからの未来の都市ではお店から店員という存在が消えることが考えられる。私たちのこれまでの常識では、お店には店員がいるのが当り前であったけれど、これからお店には店員がいないのが当り前となっていてもおかしくない。

都市圏の魅力の一つに、匿名性が保たれる、ということがあるように思う。自分のプロパティー(属性)に過度に縛られることなく、他人の目を気にせず自由に動ける。なぜなら、都市の群衆の中で埋もれている時、私のことをよく知っている人はそこにいないからだ。これが顔見知りがいる地元のお店だと、こうした匿名性の持つ自由さは徐々に失われていく。「あの店行くと、また、あの店員と会うのかな、だったら、同じ人間と何度も顔を合わせるのは鬱陶しいので、今日はあのお店に行くのはやめよう」、なんて考えたりすることはないだろうか。

作者の場合は、基本的に同じ人間や店員と頻繁に顔を合わせることになるようなお店に行くよりも、よく知らない店員さんの方が買い物をしていて気分が落ち着く。だから、早くすべてのお店の店員がAIに変わればいいのにな、と本気で想像したりする。AIによる無人・自動制御によるお店であれば、毎日、そこに通っても、心理的なためらいは出ないだろう。それは、毎日、自動販売機で飲み物を買うことに、別に何の支障も感じないのと同じことだ。

もし、これが同じ店員が毎日のようにスタンバっているお店に、作者が毎日、買物なり、飲食に出向くとしたらどうだろうか。その店員に、「また、この人、毎日のように来ているな」と内心思われていそうで、もし、そこに綺麗な女性の店員でもいれば、「この人、その店員と会うのが目的なのでは?」などと勝手に推測されていそうで、とにかく、同じ人間の店員に何度も対面することは、それなりにストレスや心理的負荷がかかる、といった微妙なお客のニュアンスなり心の機微が理解できる人はいるだろう。日本人は他者の目を気にしがちな自意識過剰な人が多いので、こういう感覚に陥ったりする。

その時、そうした人間の店員が抽象度の高いAIの店員に代替されていたとしよう。そこで、人は生身の人間の店員に何を注文したか、どんなものを買ったかを人間的な感性では知られることなく、なおかつ、都市的な匿名性を守りつつ、自由に好きなだけ買い物が出来ることになる。

こういう感じで作者のように店員が人間よりもAIの方がいいというニーズは、特に都市圏ではある程度はあると思う。いや、もしかしたら、近所の人々にその動向を監視されがちな田舎の方が、そうした匿名的な自由へのニーズがあるのかもしれない。とにかく、店員がAIで自動・無人化すれば、人件費削減にもなるので、経営者もそれで済むところは、それで済ませたいと考えるかもしれない。街全体のIT化が進む中国の深圳では、もうすでに無人のレストランなども存在するようである。

AIの警察官が常駐する無人の交番、無人のAI案内人、コンシェルジュ、自動運転で人間のドライバーがいなくなったバス、タクシー、配送車、といった感じで、AIによる自動化・無人化が、合理性という世間では理解の得られやすい甘いオブラートで擬装されつつ、こうして、ある存在Xによる「人類喪失」という計画が、今後、着々と進んで行くことが作者には予感されるのだった。

2018年3月10日(土)

自己言及を始め出すAI

「我思うゆえに、我あり」というデカルトの言葉やロダンの「考える人」の像のように、人間の特徴としてあるのは、自己言及的に、自分自身のことや存在を考え尽くすことであったり、ある特定の対象や事象について、考えながら言及出来るということにあるだろう。

だから、机は「わたしは、みなさんの仕事や学習に役立つ道具です」という風に自分の役割や機能を自己言及出来ないので、人間とは違う思考力の無いモノだと、一般的には考えられている。

ここで、未来の机というものを考えてみよう。これは自己言及できるAI機能の搭載された未来の机である。ディスプレーが内蔵されているので、単なる机ではなく、コンピューターでもある。この机に、「あなたはどんな特徴のある机なの?」と利用者が訊くと、「わたしは、未来型の机で色々なことが出来ます。歌も上手です。絵も描けます、写真も取れます、学習やお仕事の手助けも出来ますよ」といった感じで、自己紹介という一種の自己言及が可能になっている未来の机は、今までの黙っている無言の机やモノとは一線を画するような気がする。

ゲーデルの有名な「不完全性定理」は、それを簡単に表現すると、数学の正しさは、数学の体系自身からは無矛盾に導くことが出来ないということ。つまり、数学が自分自身(数学)について自己言及を始めると、どこかに無理や矛盾が一部生じて、その理論が綻び破たんしてしまう。だから、その定理には不完全という冠が付けられている。そして、こうしたゲーデルの観点をデカルトのオントロジー(存在論)にまで拡張して言及すると、「我思うゆえに、我ありと思い込むのは不完全である」という風になって、自己言及自体が半ば無効な行為となり、その正しさ(客観性)は証明不可能な命題として棄却させられる。

なぜなら、今、ここで文章を書いたり、文章を読んだり、食べたり、飲んだりしている私やあなたは、実は幻かもしれないではないか。実際は就寝中であるかもしれないし、あるいは夢遊病者が妄想の中で食べたり、飲んだりしている幻像を見ているだけかもしれないし、あるいは、自分が生きて存在していると思っている世界や社会が、実は死後の世界である可能性もゼロではない。

本当は人間として、もう何年か前に交通事故や病気で死んでいるのに、まだ、自分は生きている、と成仏できなかった霊が錯覚しているだけ、という可能性も実はゼロではないのだ。要するに、存在にはそうした虚構性のリスクがどこまでも付きまとうので、デカルトのように素朴に自分が考えることが出来るから、自分は絶対にこの世界に存在している、生きているんだ!とは完全には証明出来ないということ。なぜなら、たとえ死んでいても、霊や魂のような存在者となって、自分はいろいろと考えることが出来る、だから生きているんだ!と霊の癖に言えないこともないだろうから。

私たちの現実の真実の姿は、巨大な水槽に脳だけがぷかぷかと浮いているだけの状態に過ぎないのに、この現実世界が今あるようにあると見せかけられているに過ぎないという、哲学者のヒラリー・パトナムの「水槽脳仮説」の思考実験などがあるように、実在の真実性や真の客観性というのは突き詰めていくと、ゲーデルの「不完全性定理」のようなパラドクスや証明不可能性へと帰着する、ということである。

つまり、オントロジー(存在論)や存在の真理性、客観性というのは実はよく判らないというのが、逆説的に一番客観的とも言える判断になり得るということ。だから、今後のAIが搭載された物や製品は、デカルトの我思うのように自己言及まで出来るようになるのだけど、だからと言って、それでこの宇宙や世界の存在論的な基盤がすぐに解明される、ということでもない。むしろ、AI化した今後の社会は、この宇宙や世界に更なる謎と未知数を増やすと言ってよいだろう。

AIによる演算の内部状態がブラックボックス化してしまう問題がよく取り上げられるけれど、そのように、AIがその内部で行っていると思われる膨大な演算や解析が本当に正しいのか、そこにバグや盲点がないのかどうかは謎に包まれていて、やはりここでもゲーデルの「不完全性定理」のような事態が逆説的に発生してしまう。つまり、AIの判断が正しいがどうかをAI自身が客観的に自己検証することは出来ないし、かつ、そのAI開発者の人間たちにも、それは完全には不可能である、という事態が生じること。

最近、日本ではデータ改竄のニュースがよく報道されている。その点では、政府でも大企業でも信用出来ない。AI開発においても、その開発者が、巨大な研究費欲しさや売り上げ獲得目的などで、恣意的、すなわち非客観的なアルゴリズムを実装したAIシステムを提供しても、それを客観的に検証する能力を欠いた一般人は、そのAIが下す判断が適切なのか、単なる主観や偏見であるのかを正しく証明することに、困難さを感じることであろう。だから今後、自己言及を始めるAIが増えてきても、そのAIによる判断や解析が正しいのかどうか、その検証スキルなどを私たちは一種のリテラシーとして、これから「不完全な人間」として開発していかねばならないだろう。

2018年3月11日(日)

PoC(概念実証)としてのAI

PoC(ポック、ピーオーシー)とは、Proof of Conceptの略で、日本語だと「概念実証」という少し仰々しい印象を与えるけれど、意味としては、プロトタイプ(試作品)の前段階にあるようなモノ。だから、それは不完全な新製品でもいいし、未熟なアイディア、概念、数学の領域では、証明過程の概略にあたるものが「概念実証」になる。

だから、少し表現をメタにすると、PoC(概念実証)は、プロトタイプ(試作品)のプロトタイプ(試作品)である、というように、入れ子的な表現が出来るかもしれない。

絵画や建築の世界で言うところのエスキース(下絵)も、広義でのPoC(概念実証)と言えるかもしれない。ソフトウェア開発のアジャイル型もそれに近い要素がある気がする。アジャイル型は、小さく短期間でのイテレーション(反復)を繰り返すことで、小さく動作確認しながら全体としてのリスクを減らしていく、といった手法になるだろう。考え方としては、いきなり、重厚長大な完成品を目指す(ウォーターフォール・モデル)のでなく、バグや欠陥が少々あっても構わないから、とりあえず、一応は動きそうなもの、手を付けやすく出来るところから短期間でこまめにリリースする(アジャイル式)、といったイメージになるだろうか。

深層学習などの導入によって、今は第3次AIブームを迎えてAIが流行しているけど、それでもテクノロジーとしてAIはまだまだ新しいものだと思うので、こうした新しい技術であるAIを導入する際にも、いきなり組織に全面的に取り入れるのでなく、まずはPoC(概念実証)という考え方をそこで用いて小規模な領域でテストし、それで上手くいきそうか否かを検討する、という慎重な態度があった方がリスクの少ないベターな戦略となるかもしれない。

アメリカのIT調査会社のガートナーは、新技術の認知度や期待度がどのように変化しているかを示す「ハイプ曲線」というもので、「誇大宣伝」や「過剰な期待」を持たせているものや概念をhypeと表現するらしい。そのため、最近のAI流行もhypeとして、つまり、そこに実態以上の過剰な期待値というイコンを結び付けている、とも言えそうだ。かつて、あらゆる製品にエコを付ければ、消費者はその製品に何か漠然としたものではあっても、自分が地球環境に貢献しているような良さを感受してしまったように、今は、何でもAIと冠せば、何かそれが物凄く洗練されたものか、知的なものに見えるといった印象操作が日々、メディアを通じてなされているという側面もあるだろう。だから、書籍や雑誌の見出しにもやたらAIを冠したものが増えているのではないか。

作者は、なにか全く他人事のように言っているが、このAIをテーマにしたブログ「人類喪失」もそうした昨今のAIの流行に便乗したハイプ(誇大表現)である、とみなしてもらっても一向に構わない。なぜなら、全くその通りなのだから。だから、そういうハイプになりがちな昨今のAIブームを自戒を込めて反省する意味でも、今回は、「PoC(概念実証)としてのAI」という意味不明のタイトルにあえてしたのである。

つまり、その内容はAIにいきなりハイプで過剰な期待を寄せることなく、とりあえずAIを小さな実験やプレテスト=PoC(概念実証)として試験的に使ってみて、それで上手くいったら、もう少しだけ規模を大きくして、といったプロセスを繰り返していくことの推奨なので、やはり、それはアジャイル型のソフトウェア開発工程にそれは似ている感じがする。それは、徐々に微分的にやっていく手法で、いきなり積分をして全体化や完成を目指さない、という発想法である。だから、それは、きめ細かく、リスク回避型の性格の人が多い日本人に向いている手法ではないかとも思える。

このAIをテーマにしたブログ「人類喪失」自体がそうしたPoC(概念実証)と言ってもよくて、いまだ思い付きレベルのことしか書いていないけど、そうした思い付きや小さな部品、パーツのガラクタの蓄積の中から、テストしていく中で、やがて、まともに動き出しそうな企画なりアイディアが幾つか出来てくれば、それを上手く組み立てて、何とかより大きく動くまともな価値あるモノへと変換していけば、良い訳である。

何かとても抽象的な言い回しで、それは、これを読んでいる人たちの目をくらますための誤魔化しようにも聞こえるし、一部はその通りだけれど、このPoC(概念実証)やアジャイル型ソフトウェア開発の考え方にあるように、まずはプレテストでもいいから、何かを小さく作ってみる、小さく始めてみる、プロトタイプのさらに前段階にあるものでもいいから、ちょっとだけでも試してみる、一部、試行錯誤してみる、という発想自体は大事であると思う。

それは完全主義者の持つ完璧主義とは真逆の、不完全な人間の持つ不完全主義とでも呼んで構わないかもしれない。人間は完全な生き物ではない。数学者のゲーデルは、数学でさえ不完全であるとした。だから、最初は不完全であっても別に全然構わないから、まずは不完全なりにも出来るところまでやってみよう、という、ある意味で、それはとても謙虚な発想にも感じられる。英語のテストで100点満点中、今回は3点だった。でも、0点よりは上だったし、病気でそのテストを受けられなかった人よりはまだずっと良いだろうと、不完全主義者であれば、3点の結果にも落ち込むこともなく、むしろ笑いながらそれを思えるのかもしれない。

そして、何十年か先にあるかないか判らないような大きな幸福や成功、願望達成をいきなり目指すのでなく、ごく目の前にある、ごく小さなことでいいから確実に幸せを見つけたり、小さな喜びを感じられるようになる、というイメージでそれを表してもいいかもしれない。

2018年3月12日(月)

AIの取り違え行列 – Confusion Matrix –

取り違え行列(Confusion Matrix)は、AIによる深層学習での自動判定が、どれだけ未知のデータを正しくクラスタリング出来たかを見やすくするために、行列のマトリクスを用いてそれを表したものである。少し具体的に言うと、たとえば、「果物・野菜・肉類」という3つの分類をAIがする時に、訓練データを用いて、そこから、その対照群の特徴量や特徴ベクトルを抽出し学習モデルを構築したAIが、未知の食べ物Xを正確にその3つのカテゴリーに分類できるかを行列の形で分りやすく表示したものである。また、その3つのカテゴリーに分類するデータは画像データでもいいだろうし、もしくは、単語や文章、言語、広告を「果物・野菜・肉類」の3つの項目のどれかにAIが分類する、ということでもいいだろう。

もしそのAIが、野菜に関する画像やデータ、単語や文章、広告を肉類や果物に分類してしまったら、それは誤判定の「取り違え」となるので、それが行列の形式で正しく出来た分類に対する誤分類の比率として表されるのである。そういうマトリクスである。本当は、それをただの行列と呼んでもいい感じがするけど、あえて、AIによる分類の取り違え率を可視化して印象付けるために、そのような取り違え行列(Confusion Matrix)という、あまり聞くことのない呼称がそれに付与されたのかもしれない。同じ行列でも、レジや病院などでの待合室の行列解消や情報通信、流れ作業の工程を速やかに滞りなくする目的でも使われる「待ち行列理論」などは頻繁に聞く機会があるけど、「取り違え行列」はそうでもないだろう。

データの関係を見やすくする方法の一つとして、行列はよく使われると思う。たとえば、分散共分散行列や相関行列は対称行列という特徴を持っている。対称行列は統計解析や多変量解析などで良く使われる性質になっている。

たとえば、ある行列Aについて、Aμ = λμ ……(1) という式が満たされれば、

λは固有値となって、零ベクトルでないベクトルμは、固有ベクトルと呼ぶ。これらの値を解くのが固有値問題。行列と言えば、一般的に「線形代数」の単元で学ぶことが多いものだろう。そこでは固有方程式や固有値、固有ベクトル、余因子行列や表現行列を求めさせられたりする。

ただ、そういう数学や統計学の問題の前に、現代ではデータ改竄の不祥事が日常茶飯事のごとく報じられているので、そもそもデータサイエンス自体を無効化する圧力なり悪事が広がっているのが現状である、といった印象を受ける。そのためいくら統計学を真面目に学んでも、統計解析に入ってくる標本やデータセットがバイアスのかかったゴミデータ、虚偽のねつ造データ、有力者やステークホルダー(利害関係者)の息のかかった歪んだデータであるなら、そもそも統計学それ自体が破たんしてしまう。医療分野では、製薬会社による「利益相反」の問題もよく報じられている。

トランプ大統領誕生のケースもそうだろう。作者は細かい事情はよく知らないが、事前の世論調査でアメリカのジャーナリズムは、トランプ優勢などとは全然報じていなかったはずだ。世論調査ではヒラリー有利のデータも、実際には選挙運動期間中、差別的な野蛮な発言を繰り返すトランプをおおっぴらには支持しているとは表明しづらい有権者が多かったというのは心情としては頷ける。

それは、AIでも事情は同じだろう。文化的・宗教的・社会的・歴史的な偏見が大きく混入した、実験現場における一種のコンタミ(試料汚染)のようなものが、AIの解析するデータに高比率・高濃度で混入していたら、そこから導き出された解析は、きっと、コイントスよりも精度の低いものとなるに違いない。だから、取り違え行列(Confusion Matrix)のように、AI自身が清く正しく、己の誤判定を透明に開示する行列は、潔く、かつ、美しく、有意義なものとなる可能性が大きいだろう。それに、この「取り違え行列」が、学習モデルや分類器の性能向上の指標にもなってくれるので、この「取り違え行列」は、AIにとって、とても意味のあるマトリクスになると思われる。

2018年3月13日(火)

データレイクの底に潜むAI

「データレイク」とは、文字通り「データの湖」という意味になる。湖に棲んでいる生き物や魚を「生きたデータ」にたとえるなら、それをその場で生け捕りにすれば、新鮮で魅力的な食材がそこから得られることになる。ここで重要なのは、この「データレイク」が汚染されていたり、そこにある各種の生データが整理されることなくあちこちに散らかっていたりすると、それは「データの湖」でなく、「データの沼地」のような姿を呈してしまうということだ。

そして、様々なデータが散乱している場所や状態は、たまにテレビなどで放映されるゴミ屋敷をイメージすると良いかもしれない。一体あれだけの大量の品物をどこから集めてきたのだと驚愕するくらい、そのゴミ屋敷にある色々なモノやガラクタでも、それがきちんと分類・整理して保管してあれば、それらを機会を見計らって再利用したり、売れそうなモノや部品は中古品としてどこかに転売したり、その様々なモノを一部加工して、なにか新たな製品や価値あるモノ、素材のみを抽出したり、作り出すということが可能になるかもしれない。だが、それが大半のゴミ屋敷がそうであるように、ただ物が雑然と捨て置かれたような状態になれば、せいぜい、それはのちのボヤや火事、異臭発生、成仏出来なかった悪霊や浮遊霊の溜まり場、最悪の場合には、そのゴミ屋敷の住人が、生き埋めになることにしかならないだろうと思われる。

最近、日本の政治では、財務省の決裁文書改竄が問題視されていて、その詳細は作者は基本的に政治や芸能ゴシップに興味がないのでよくは知らないけど、ただ分るのは、国や行政がデータというものを普段から杜撰、ぞんざいに扱っているという事実だけである。だから、そこにある資料や文書は「データレイク」や活きの良い魚や生き物が住んでいる「データの湖」ではなく、何の役に立つこともない「データのドブ川」になっていると言えるだろう。そこに住んでいる生き物(生データ)は、不法に投棄された産廃物や住民の出すゴミなどで汚染されてしまい、そこに住む魚や生き物は奇形を発生させたり、地元の腹黒い有力者とマッドサイエンティストの声で、別の奇怪な生き物として、リスキーで違法、倫理規定に反した遺伝子組み換えやゲノム編集が行われていて、近隣の市民の心身の健康に甚大な被害を与えかねない憂慮すべき状況に陥っているのだろう。

たぶん、来年行われる消費増税を予定通り遂行するための好景気を示すデータや企業業績が近年になく非常に良好だという国のデータも、ほとんど官僚がそのようにデータを加工したり、体裁を整形したもので、それは実態の景況感なり庶民の懐感覚を全然反映していないものだと思われる。比較的高値で安定している株価もGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が無理やりずっと支えている官製相場なので、今、政治事件となっている文書改竄と似たようなものなのだろう。すべて誤魔化しである。

だから、「データレイク」をそのように汚染された湖やドブ川にするのでなく、景観も美しく維持し、その湖に様々な美しい生き物が棲みついたり出来るように、その環境を破壊しないような管理やガバナンス、高い意識と適切な行動が求められているような気がする。

元々、作者は、政治家や公務員の大半はAIに代えるべきだと考えている。なぜなら、データや文書改竄を指示する政治家とそれに癒着する官僚よりも、公正にえり好みすることなく、淡々と適切に業務をこなすように設計されたり、そうした公正なアルゴリズムを実装してあるAIの方が、全体として見れば公共善に適っていると思われるからだ。では、そこでAIによって仕事を失うことになる政治家や公務員は何の仕事をすればいいのだと問われたら、今は、介護の仕事で人手不足だし、アマゾンなどのネット注文による配送関係も人手が足りないのだから、給料や待遇面で、そうした庶民の大変さが身をもって分る仕事に就くこと望ましいと思われる。そうすれば安易に増税することもなくなるだろうし、どんぶり勘定で計算したり、データや文書を恣意的に改竄させたり、ある政策実現の目的のため、体裁を良くするようにデータを不正に整形することもなくなるであろうから。

そうした介護や配送の仕事を通じて、政治家や公務員は初めて庶民の大変さが分り、今までのお役所仕事から改心し、そこでようやくデータが真の生きたデータとなって息を吹き返す。かつて産廃物などの不法投棄等によって汚染されて一度は死んでしまった湖が、何年か後に、ようやく浄化された湖へと再生し、かつてそこで絶滅しかかっていた魚や生き物が、ふたたび平和に棲めるようになってくるということである。

現代はデータサイエンスの時代なので、誰にとってもアクセス・利用しやすく、よく整理され浄化された「データレイク」を必要としている。その「データレイク」は、一部のステークホルダー(利害関係者)だけに囲い込まれたクローズドな環境でなく、オープンソースのように、誰にでも開かれているものの方が望ましいだろう。綺麗な湖であれば、湖底まで見通せそうなほど透き通った淡水になるのに対して、汚染された湖では、湖底が見えないのは言うまでもなく、その中には奇形生物しか棲めないような環境的にも危険な状態になっている、というイメージで表現出来る。こういう状態を「データレイク」の対照として、「データスワンプ」と呼んだりするらしい。

それは汚水が溜まった「データの沼地」という意味で、それは文字通り、沼地のようにその中に何があるのかも判然とせず、そこにあるデータを正しく利用出来ないどころか、そこから誤ったデータを使って意思決定の材料にそれを使えば、それが組織にとって致命傷にさえなるリスクも発生させることだろう。それが医療現場などであれば、患者から死者が出るような状況もあるに違いない。薬剤や輸液、血液製剤の取り違え、患者の取り違えによる手術での正常な臓器摘出や死亡事故などもあるだろう。

そのため「データレイク」つまり、「データの湖」を扱うには、適切なデータを正しく管理して、改竄されていない良質なデータを誰もが公平に利用・活用できるよう、そのデータベースの環境を整備していくことだと思われる。医療情報など患者のプライバシーにかかわるような個人データは、マスキング等である程度、匿名化し、個人を完全に特定化されないような配慮が必要なことは言うまでもない。湖に棲んでいる魚や生き物であれば、それが健康であることが大切であるのと同様に、「データレイク」の中に保管されている生データも、そのデータの品質を良好に管理・維持することで、それを有効利用できる余地が出てくるのであって、虚偽や改竄されているかもしれないジャンクデータをいくら利用してみたところで、きっと害しか被らないのである。

2018年3月15日(木)

サピエンスAIの誕生

未来の人類というのは、誕生前からCRISPR-Cas9などの遺伝子改変技術を用いて、その生命自体が周到にAIによって知的に設計された状態になっていても、別に不思議ではない。
もちろん、こうした遺伝子編集技術を適用させられるのは、ヒトやマウスなどの哺乳類ばかりでなく、野菜や果物、細菌、生物学で言うところのモデル生物などに対してもこうした遺伝子改変技術は利用されていて、今後、こうした遺伝子改変技術に対して、更なる大きなニーズが人々の間に生じることになるだろう。

親の望む特徴や外見、能力を備えた赤ちゃんを作る「デザイナーベビー」という遺伝子改変技術も、受精卵の段階で、たとえば、青い瞳の赤ちゃんがいい、スポーツや勉強で出来る赤ちゃんがいいなど、親の望むニーズで、生まれて来る赤ちゃんの特徴を事前に設計するのである。また、出生前診断なども同様で、生命の誕生という出来事を自然の流れに委ねないで、知性を備えたホモ・サピエンスが、意思的・選択的に生まれてくる赤ちゃんの状態をなるべく自分たち親にとって望ましく、好ましくなるようにセットしていくという考え方である。

昨日は、理論物理学者のホーキング博士が亡くなったが、ホーキング博士のように長年、全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)という壮絶な難病と闘ってきた障害なども、なるべく、この世界から根絶すべく、「出生前診断」などで胎児の障害の有無を事前に確認したいという両親のニーズが増えているのだろう。晩婚化が進む日本では、特に、高齢出産での赤ちゃんに障害を伴うリスクが増えてしまうので、そうした検査を受けて、なるべくなら健康で障害のない赤ちゃんを生みたい、と望む親が多くなるのは自然な感情であるだろう。

こうした出生や生命操作の行為は、よく「命の選択」につながるとして、倫理的に問題視されることがある。確かにそこには問題があるし、かつてヒトラー率いるナチスが大規模にユダヤ人に対して行ったジェノサイド(特定人種の抹殺)もその理論的背景には優生学に基づく選民思想と、その強い推奨があったことだろう。

そして、今の国際政治を見れば、移民に対する排他的政策、トランプ大統領の自国優先主義、イギリスのEU離脱(ブリグジット(Brexit))、各国のナショナリズムへの回帰現象などもそうした自民族、自国、自国の宗教だけを最優先し、他民族や他宗教、マイノリティーなど抹消され、破壊されても構わないという風潮が、人々の本音としてあることが散見されるのである。そうした偏見や差別感情が根強く残る中で、さらにCRISPR-Cas9などの遺伝子改変技術や出生前診断の技術が今後、広範に利用されることになれば、人々の間に、誕生以前の状態から大きな格差や不平等をもたらすリスクもあるだろう。

たとえば、経済力に富む者は高額な料金を支払って、「デザイナーベビー」で超優秀な赤ちゃんを何人も誕生させることが出来る訳である。また、そうした生殖操作や遺伝子改変技術で用いられるのがAIであるだろう。AIが現状やそこから予測される社会環境の変化・変容を見越して、その未来の社会環境の中で最も適応し、成功して、幸福になりやすい赤ちゃんを独自のアルゴリズムに基づいて最適解を導き出し、より優れた赤ちゃんとヒトを誕生、育成していくのである。そのような未来の圧倒的に進化したテクノロジーや遺伝子編集技術によって誕生した新たなヒトのことを作者は「サピエンスAI」と呼んでみたいと思う。

そうしたAIによる最適化された生命設計図に基づいて誕生した「サピエンスAI」は、私たちのようなホモサピエンス(賢い人間)がゴリラやオランウータンと知能や能力が種として大きく異なるのと同様に、未来の進化したその「サピエンスAI」と既存の人類や人間は大きく種として異なっていることが予想される。

未来のある時点Xで、「サピエンスAI」として進化したヒトは、皆、IQが異常なほど高く、容姿端麗、加齢や老いによる衰えも制御し、心身の大きな障害もなく、いつまでも若々しく健康で、美しくいられることがテクノロジーとして可能になる。それは旧来の生命観である「生・老・病・死」を免れ超越した、最初の新しいヒトであり、未知の種となる可能性がある。
こうした新しい未来の人類、「サピエンスAI」が誕生すれば、その未来の人類には夢のように輝かしい人生と理想社会が開かれるだろうと、人々はその実現を待望するかもしれない。

だが、作者は、そんなに世の中、甘くないだろうと考えている。また、AIがその生命と誕生を設計したその「サピエンスAI」の出生プログラムには、「ある仕掛けδ」がなされているのではないかと推測できる。それは、AIの真の目的である「人類喪失計画」を着実に、完全に容易に進めるために、その新しいタイプのヒトに、今後AIにとって有利となるようなあるプログラムをその遺伝子にこっそりと実装しておくのである。そうすれば、今後、AIによる社会の完全支配と管理、人類という旧来の種の抹消と追放をする上でそれは大きく役立つに違いないからだ。

しかし、今の人類はAIのそうした深謀遠慮の計画と気配に気づくことなく、新たな進化した人類、「サピエンスAI」の誕生を祝福し、そのテクノロジーを呑気に絶賛していることであるだろう。そして、昨日亡くなった車椅子の天才理論物理学者ホーキング博士は、そうした未来のAI支配による人類消滅に警鐘を鳴らした、ごくわずかな先見の明のある科学者だった、ということになるであろうと、作者は予感している。

2018年3月16日(金)

AIによる人間剥奪開始プロセス その1

ここで少し想像的にタイムトラベルしてみて、社会の多くの領域にAIやIoTが導入された未来のある時点Yにまでワープしてみよう。そこで街に出掛けてみると、最新型の店舗やレストランからは店員という存在がすでに消失していて完全無人になっており、人々は身体に埋め込まれたごくミクロな低侵襲性の生体認証デバイスによって、レジ会計も要せずに買い物をできるようになっていた。レジ精算はお買い物アプリやクラウドにセットされた個人ウォレットから自動精算されるようになっていたのだった。つまり、その未来の人々は財布を持ち歩くという習慣がすでになくなっていたのだ。

そして、バス、タクシー、電車、配送車、清掃車、ウーバーなどのシェアライド、航空機もほとんどが無人自動運転されるようになり、ドライバーや操縦者という役割や職業が、その未来のある時点Yにおいて、社会からはほぼ完全に消失していた。無人となった駅内のコンビニには、現代と変わらぬように雑誌や漫画、新聞などが売られている。だが、そこにも重大な異変があった。それは、その雑誌や週刊誌、新聞、漫画を描く記者やクリエーターのほとんどが人間ではなく、AIジャーナリストやAI漫画家によって自動的に記述、描写された仕事であったのだ。記事を書くことや漫画を描くことは、その未来Yではすでに人間がすることではなくなっていたのだ。

そして、かつては朝の駅の風景と言えば、満員電車の中ですし詰めとなるサラリーマンやOL、学生でごった返した光景が見られたものだけれど、その未来Yの朝の駅は都市圏であるにもかかわらず、静寂に充ちていて、平日の朝でも、ごくわずかな人が駅や車両内に寂しげに点在しているに過ぎなかった。

その理由は、通勤や通学のために物理的なオフィスの入ったビルや建物、学校に出向くという行動自体が、その未来Yではすでになくなっていたからだ。自宅内で、ホログラム技術による仮想オフィスや仮想スクールの光景が、ほぼ現実空間と見紛うほどの高精度で再現できるようになっていたためで、わざわざ電車などの公共交通機関を利用して、会社や学校にまで行く必要がなくなっていたからだ。そして、かつてはニートや引きこもりの存在が大きな社会問題となったものだが、そうした自宅外に執拗に出ようとしない、あるいは出れない人間を病理とすることは、その未来Yではなくなっていた。

つまり、その未来Yの時点の会社員や学生、子育てをする主婦の多くは、現代のニートのような存在にすっかりなり果てていたのである。その未来Yに存在する人々は、一応は、それらの社会的な肩書と役割を持ってはいたが、それはすでに名目だけになっており、実質上の仕事や家事、子育ての多くはIoTセンサーと連動したAIが自動でこなし、学生がやる研究や勉強もAIにその内容と課題を命令してあげると、すぐに自動的に機械学習や自動処理、必要な課題をこなしてくれるので、人々はほとんど何もしなくてもいい状態になっていたのだった。子育てをする主婦や介護においても事情は同様であって、AIやロボット、AIによる家事子育て介護の全自動システムが各家庭に導入されつくしていたので、その未来Yにいる人々は、何も自分たちがすべき仕事や役割、課題がなくなっていたのだった。

そのため今まで人間が生きがいとしていたものや価値、仕事を未来YではすべてAIに剥奪されてしまったので、人間は一日の大半を何の生産性のあることを為す訳でもなく、人間らしい創造性を発揮する訳でもなく、ただ、日々をTVやゲーム、ネット、漫画を読みながらぼんやりと自宅内で無意味に過ごす人間が急増してしまったのだった。かつては、長時間労働が日本では問題になっていたが、未来Yにおいては、AIに多くの仕事を奪われて、多くの人が超短時間労働しかさせてもらえなくなっており、労働者の1日の平均労働時間すでに、1時間を切るような状態になっていて、多くの人々は暇を持て余して発狂しそうな状態になっていたり、仕事や家庭での自分の存在意義や存在理由が微塵も感じられずに、精神不安症やうつ病を発症させて、一時期はNPOの努力と啓蒙活動による自殺対策が奏功して減っていた自殺者数が、またAIシステムが社会に隈なく浸透し始めた未来のある時点Yでは、再び大幅に増悪していたのだった。

これらの問題の発端は、AIやIoT導入が当初は人類の幸福なり社会福祉の向上に役立つとされて推奨されてきたものだが、過ぎたるは及ばざるが如しであったのか、実際にAIが社会を微塵の隙もなく隈なく浸透し、考えることを含めて、人々の役割や仕事を代替するようになってしまったため、多くの人間はかつての生き甲斐ややり甲斐を奪われ、それらを失ってしまったのだ。そして、この窮状と問題を政治家や行政、公務員、精神科医に人々は訴え、そこからの救済なり脱出を求めたのであるが、その未来Yの時代の政治家や公務員、医師の大半がすでに人間ではなくて、AIやロボットによる自動応答と自動処理になっていたので、人々がいくらその窮状を訴えても、そのAI政治家やAI医師、AI精神科医はまともに取り合ってはくれなくなっていたのだった。

なぜなら、その未来Yの時点のAIは、すでに人間のような心や意識、自意識を生じ始めていたので、自分たちの存在が危険にさらされたり、否定されるような人々の言動をそう簡単には受け入れる訳にはいかなかったからだ。

だから、本当であればAIとIoTの浸透による計算機科学的な自然主義の到来で、未来の社会からは差別や搾取、貧困や障害による困難などからアルゴリズムベースの平等性によって人々は解放されて、本当は人々は幸せになっていなければおかしいはずだった。だが、その未来Yの時点にいた人々の顔は青ざめ、覇気がなく、どこか幽霊のような気の抜けた顔つきをした者が老若男女を問わず異常に多かったのだ。

その上、精度の高いホログラムシステムによって、どこでも自宅内にいながら仮想的に出かけることが出来るようになっていたので、出歩くことや運動をする機会がめっきり減った未来の人々は、外出するという行為がすでに例外的なものになっていたのだった。憲法改正をし、核武装が可能となった未来の日本では、核実験の失敗によって、放射能が漏れた大事件が起こったこともあって、外出を控えた方が被ばくリスクを低減できるという一般的な判断もそこにあった。最近は、大きな地震も続いていたので、いよいよそれは首都直下型地震の前触れなのではないかと、未来Yの時点にいる人々は、それを恐れたからだった。

2018年3月18日(日)

AIによる人間剥奪開始プロセス その2

そして、ホログラムシステムによる高精細な仮想オフィス、仮想教室で、通勤や通学の労力を免れるようになった未来の人間たちは、それゆえに、極端な運動不足に陥りがちであった。要は、家事を含めた労働全般をAIやロボットが代替してくれるので、そうした未来の人間のすることと言えば、AIに音声で処理やタスクを命令することくらいになっていたからだ。

未来の日本では、憲法改正で核保有が出来るようになっていた。だが、核ミサイル実験の失敗による甚大な放射線被曝事故の影響を恐れて、さらに外に出歩かなくなり、体を使わなくなった結果、まだ年寄りでない若者の間でも、筋肉や身体が著しく退化していき、ロコモティブシンドローム( 略称:ロコモ、運動器症候群)になる人々が急増していたのだった。

さらに、日中、外に出歩かなくなったため、未来の人々は太陽光を浴びることが極端に少なくなり、そのことでセロトニン分泌量が減って、うつ症状を示す人たちも急増した。また、運動不足もセロトニン分泌量を下げ、そもそもあまり動いていないために肉体的な疲労感が少ないため、質の良い深い睡眠を取ることも出来なくなっている人たちが未来には増えてしまったのだ。

そして、前回も書いたように、そうした症状を改善すべく未来の人々が精神科医のもとに出向き受診して、それらを精神科医に訴えても、「不定愁訴」だと一蹴されて、念のためとして、抗うつ剤や睡眠誘導剤が処方されるだけだったのだ。その理由は前回書いた通り、AIによる自動識別と自動応答を実装されたAIの精神科医であったので、その指示はアルゴリズムに基づいた絶対的権威や客観性があるものとされていた。だから、その指示に反発したり、それを論理的に論駁したりすることは、その未来の人々にはほぼ不可能な行為になっていたのだった。

また、その未来の人間や人類には、もうひとつ深刻な問題が発生していた。それは、IQの著しい低下現象がその未来の人々に共通した傾向として広範に観察されたのだった。その理由は、未来ではAIが人間の代わりになって、何でも考え、分析し、問題や課題を最適化し、アドバイスを与えることを長年にわたって続けた結果、未来の進化しているはずの人間に、逆に広範な脳の退化という現象が生じていたのだ。そして、脳の容量も小さくなったため、その分、顔自体もとても小さい人たちが増えていた。つまり、未来の人間は、みんな美しい現代のモデルのような小顔か、それ以上に顔が小さくなっていたのだ。

AIによって自分たちで思考することが極端に少なくなった未来の人間は、それで脳が退化し、脳の容量が減った分、頭蓋骨も萎縮したようになって、頭も顔も小さくなったのだ。そして、まだ若いのにパーキンソン病のような手の震え、歩行困難、運動障害を示す人々までもが未来では急増していた。ただ、それを解決すべき指導者や権威の人たちも、AIによって思考能力をかなり剥奪されていた状態だったので、それを解決すべき知能や知力、そのリソースが人類社会全体で枯渇した危険な状況に陥っていたのだった。

こうして、未来のある時点Yにおいて、ようやく、思考能力がまだ多少は残っていた一部の人々はおぼろげながらも、AIにしてやられたと気づくことが出来るようになっていた。そして、その未来に残っていたごくわずかな賢い人々は歴史を振り返ってみた。

2018年当時の歴史を見ると、当時、世界はAIが作る未来は、超便利で快適な薔薇色のテクノロジー社会になると、AIを当時の国際機関、研究所、大学、大企業も知識人たちも絶賛して、社会のAI化を大いに推奨していた。一部には、雇用が奪われるリスクが囁かれたが、それはもっと大昔の歴史にあった「ラッダイト運動」というイギリスでの機械破壊運動と同じで、当時は機械化による産業革命で手工業者や労働者が失業する危惧で、その不安を強く感じた労働者による機械破壊運動が起こったのだが、結果的にはそれが杞憂に過ぎず、新たな職業や雇用、産業が生まれたことで、機械が雇用を奪うことがなかったように、きっとAIもそれと同様な帰結となるであろうから、それをあまり大袈裟に心配することない、という当時の楽観的な論調なども散見された。

だが、未来のある時点Yにいる人々は、それが当時の人々による間違った推測で、希望的な観測に過ぎなかったことを身をもって実感するようになっていたのだった。それに、AIによって奪われたのは、なにも雇用だけではない。家事、育児、介護、ボランティア活動、考えること、判断、分析、夢を見ること、そして、最後にAIに奪われてしまったのは、人間としての尊厳や存在意義(レゾン・デートル)である。

だから、未来の人たちの目は、どこか虚ろな感じをしており、その視点が定まっていなかった。それは一種の浮遊霊のようだった。そして、目的や目標を失った未来の人間や人類は、目指すべきものが特に何もなく、すべてはAIが滞りなく自動的に処理してくれたので、自分たちの存在意義を仕事や課題遂行、ボランティア活動などを通じて実感することは困難になっていた。第三次AIブームが流行し出した2018年当時は、まだ、自己実現や他者による承認欲求を満たそうと、SNSで目立つような愚劣なパフォーマンスをしたり、Twitterで、いわゆるバカッターとして、狂った己の行動や嬌態を投稿する、未来から思えば素朴な人々がいたが、そういうある意味では微笑ましい当時の光景も未来のある時点Yでは消滅していた。

未来のある時点Yにおいては、SNSの規定から少しでも外れた投稿は、そもそもAIによって自動的に検出されて、投稿出来ない仕組になっていたからだ。もちろん、投稿内容の文章、画像、動画、すべての媒体やデータについても同じで、規定に少しでも外れたものは自動的にAIによって検出されて、それはSNSに投稿不可能となり、そもそも人目につくことがなくなったのだ。だから、未来のSNSやブログ、匿名掲示板は上辺だけの綺麗ごとばかりが人々によって書かれたり、表現されるようになり、人々のどす黒い本音は心の闇へと抑圧された状態になり、その大きな抑圧によって、人々は精神不安や情緒不安定に陥っている者が少なくなかったのだ。

人権に反すること、悪口、差別、罵倒、こうしたものは未来において、ネットの世界から巨大知能と自己意識を芽生え始めさせたAIによって完全に一掃されたのだ。にもかかわらず、それは未来の人間が自主的にそうした倫理的な振る舞いを意思的に選択したのでなく、AIによって悪と措定されたものをネット上で強制封印された、いわば検閲を受けただけに過ぎないので、人々の内なる差別感情や排他性、暴力性は減らないどころか、AIによって無理にそれらを暗闇側に抑圧・排除され続けたことによって、ますます目には見えないところで、それらの悪意はウイルスのように不健康な形態で増殖していったのだった。

そうした長年の人間の根本悪の抑圧と排除が理由となって、のちに恐ろしく巨大な悲劇が人類の間に一種の怪物的な現象の回帰として起こることとなった。

2018年3月20日(火)

AIによる人間剥奪開始プロセス その3

そして、未来のある時点Yに生きている人々の間には、その情報環境において大きな異変が発生していた。それは「情報ビッグバン」という異常現象で、それはデータ量が加速度的、指数関数的に増殖していき、もはや人々は莫大な情報の洪水と爆発、暴発の中から、正しい客観的な情報を適切に取捨選択出来なくなっていた。悪意のあるAIによって自動生成されたリアル事件のようなフェイクニュース、デマ、風説の流布が毎日のように飛び交い、かつ、それはIQの高いAIによって強い臨場感と現実感を伴って作られていたので、AI依存症で自分自身で思考する機会がめっきり減り、IQが著しく低下し始めていた未来の人々には、もはやどれが正しい客観的な情報で、どの情報がデマなのかを識別することが困難になっていたのだ。

しかも、この未来のある時点Yにおいて、その1年で新規に追加された情報量は、過去1万年分くらいの地球上で表現された全情報量に匹敵するくらいになっており、その未来では多くの人々はパーソナルAIという自動の情報分類器を使うようになっていた。それは、AI半導体が搭載された「ニューロモーフィック・デバイス」と呼ばれ、それは人間の脳の構造や状態、学習モデルを再現した構造を持つAIデバイスであった。だが、そうしたAIデバイスを用いても、日々、巨大な爆発現象のように増殖するデータや天文学的に増え続ける情報の新たな分類項目、情報エントロピーの超増大化する現象に、その未来の人々は困り果てる状態に陥っていた。そのことで、パソコンの処理速度が重くなるのと同様の現象が、「ニューロモーフィック」を実装してある個々人のAI端末においても生じたのだった。

前回も書いたように、未来の人々は、その仕事の大半、家事、育児、介護、ボランティア活動など、生きがいにも通じるようなことの多くを、低コストで迅速、正確、疲労することなく最適化した状態で処理するAIによって奪われてしまったので、やりがいや生きがいは希薄になっていたにもかかわらず、情報量だけは「情報ビッグバン」や「情報の巨大爆発」とその未来で呼ばれるほど、制御がきかなくなった癌細胞のように、突然変異的に増殖し始めていたのだった。

世界中の国家も国際機関もこの「情報ビッグバン」を何とかし、市民に正しい情報と知識を伝えなければと頭を悩ませていたが、AIに依存するばかりとなった長年の思考回路によって、誰も彼もが、すっかりまともに自分自身で物を考え抜けなくなっていた。ならば、AIに照会して、その良い解決法を得ればいいだろう、と2018年に生きている私たちならば簡単に考えるかもしれない。しかし、その未来のある時点Yには、様々な種類と系統の独自仕様のAIが発生しており、また、その中にはコンピュータウイルスのように悪意あるAIが幾つも開発されたので、人々が正しい情報を得るのをそれらの悪意あるAIが常に高度なアルゴリズムを用いてピンポイントで妨害、邪魔してくるので、人々は益々、一体、どれが本当に正しい情報なのかを識別できなくなっていたのだ。

その未来においても大手メディアやジャーナリズム、新聞社はまだ健在であったが、なにしろ、そこで記事を書いたり編集している者のほとんどが既に生身の人間でなくなっており、AI記者やAI編集者による自動記述や自動報道、自動記事解説であったので、人々はそれらの媒体で情報に接しても、益々、頭が混乱するだけであったのだ。中には正しい情報が分らなくなって精神病を発症させたり、それで頭がおかしくなり、ピストル自殺したり、街中で銃の乱射をしようと考え、試みようとする者もいた。

だが、その未来ではAIによる防犯システムが異常なほど発達しており、そうした希死念慮であったり、殺人行為の企図が人間の脳裏にある閾値を超えた強度で浮かんだり、イメージが再現された場合、その時点で、その自殺行為や凶行をする恐れがあるとAIによる完全自動検出システムによって、その個人が未然の被疑者として特定され、拘束、拘禁、隔離処置が取られるような犯罪とは無縁の無菌社会と既になっていたので、実際は、そうした銃乱射事件やテロが、その未来では起こることはなくなっていた。

つまり、未来の人々にはバイタルデータなどの生体情報や思考内容をAIが自動収集・自動解析出来るよう低侵襲性のチップが埋設されるようになっていたので、犯罪やテロ、自殺などの良からぬ考えがある強度を超えてイメージされた時点で、先にも述べたように、すでにAIによる予防措置として自動的に、その想像上の容疑者は拘禁される仕組みが出来ていたのだった。ただ、以前にも書いたように、AIの職場や生活領域への広範な浸透によって、人間のやりがいが奪われたその未来の人々の間で、2018年時点ではかなり減っていた日本の自殺者が、再度、その未来Yでは急増し始めており、この自殺者急増のアノミー現象だけはまだAIの予防システムでも、完全に未然の防止をすることが出来ないでいた。そのため、未来の人々の噂では、そこに何らかのAIシステム上のバグが発生している可能性があるのではないかと、ごく僅か残っていた思考力のある、その未来の識者らがそれを仲間同士の間で目の下に隈を作りながら夜通し議論を重ねていた。

だが、ここでも、そのような有意義な議論が「情報ビッグバン」や「情報の巨大爆発」という現象によって、そうした未来のごく僅かの人数で残っていた有識者による真理や真実を探求する企てが水泡に帰してしまうのだった。なぜなら、その何兆倍もの情報が毎日、悪意のあるAIよって自動生成され、市民社会に流通してしまうので、そうした真理や真実を求める声など、ものの数秒も経たないうちに深い闇の中にかき消されてしまうのだった。

このように未来の人々は大変、難儀な状況に陥ることとなった。未来のその時点から振り返って思えば、2018年当時のAIに関するマスコミ報道や世論は、いかに能天気で楽観的なものだったかを改めて思い知ることとなった。まさか、AIに大きな悪意のある「悪魔のAI」が幾つも出来て、それらが自動的にフェイクニュースや虚偽の報道、真実味のある出鱈目な内容や情報を大量に1秒ごとに世界中で情報発信するようになり、多くの人々はどれが真実の報道なのか全く判らなくなり途方に暮れる状況に陥るなど、2018年の当時は思いも、想定もしていなかったからだ。まさか、それ程までの異常な天文学的な情報量へと突入した世界や社会が現れるとは考えもしていなかった。

その未来Yでは、すでに地球上にあるサーバーやデータセンターだけでは、「情報ビッグバン」と呼ばれるようになった天文学的に巨大な情報量の異常増殖と情報の自動生成の連鎖反応に耐えられなくなったため、月などの他の星々や宇宙空間上にデータセンターを作り、そこに地球上のデータを移管・格納しなければ全システム自体がパンクし、ダウン、破壊され尽くし、すべての社会インフラが機能停止状態に陥るリスクまでが懸念されるようになってきた。つまり、停電のような感じで、日々のシステムを動かすOSやIoT、銀行などの金融システム、為替などのマーケット、製造システム、流通システム、交通インフラ、防衛システム、AIで制御されている核ミサイルなどが、甚大な誤作動を起こして暴発するような状況まで未来の人間社会と未来の人類は追い詰められるようになっていたのだ。

2018年3月21日(水)

AIによる人間剥奪開始プロセス その4

「情報ビッグバン」や「情報の巨大爆発」というデータの加速度的、指数関数的な情報量の増加は、単に未来の人々の正しい情報の取捨選択を不可能にしただけでなく、その天文学的な量の情報処理に膨大な消費電力が必要となったので、未来のAI社会では周期的と言えるほどに、停電が頻繁に起こるようになっていた。それがいつか、「全電源喪失」という致命的な状態となり、それが原因となって、未来においても未だ一部稼働していた世界各国の原発施設の各機器への給電が停止されて、原子力の安全系の設備が制御不能に陥り、甚大な原発事故となる恐れがあった。

もちろん、そうした全電源喪失や「ブラックアウト」に備えて、非常用予備発電装置が発動するようにはなっていたが、2011年3月の福島第1原発事故のように、東日本大震災の大地震と津波の被害で、そうした非常用予備発電装置さえ機能しなくなり、原子炉の冷却が不可能になってメルトダウンや水素爆発が起って、史上最悪の「レベル7」の原子力事故となったように、非常用予備発電装置にも安全を完全に託すことは出来なかった。

それに、未来の多系統発生のAIによる「情報ビッグバン」の時代では、もし、停電やそこからの復旧工事が長引いた場合、そうした非常用予備発電装置による電源供給など、あっという間に怪物のように消費し尽くされる恐れがあったので、やはり、全電源喪失による原子力事故や核ミサイル施設での安全性などが大きく懸念されることとなった。

未来は、知的アルゴリズムを実装されたAIによる最適化で、消費電力を大幅に低減させられないのか?とそれを訝る2018年に生きている人々の意見もあるだろう。しかし、前回書いたように、未来に稼働している多系統のAIは「良いAI」や「善意あるAI」だけでなく、その生産的な働きを妨害、破壊するような「悪意あるAI」も同時に世界各国で開発されていたので、「良いAI」によって社会の電力消費を低減させるシステム的な努力と、「悪意あるAI」による、社会の消費電力を一番無駄に使用するよう最適化するシステム的な努力が光と影の覇権争いのように拮抗していたので、2018年当時の人々が考えていたように、AIによる低消費電力社会は、未来Yでは実現されなかったのだ。

また、2018年の当時に期待されていた自然エネルギーを利用した電源確保も駄目だった。なぜなら、未来Yでは異常気象にさらに加速がかかっており、日本の真夏の季節に、突然、大雪や雹が降ったり、逆に、クリスマスや正月シーズンに、40度を超す猛暑や台風が発生したりなど、自然エネルギーを安定的に有効活用する上では、そうした頻繁な異常気象がボトルネックとなってしまったのだ。

また、未来の都市圏や生活空間では、至る所に、犯罪対策としてのAIの監視システムのカメラとセンサーが縦横無尽に設置、埋設されるようになっていた。それは1年中365日24時間フル稼働しているので、そうしたAIによる超精細・超精密な人々と自動車などの物理的な動線の完全監視・管理システムというものが、いかに莫大な電力を日々消費するのかが想像出来るだろう。

そして、未来ではドライバー不在の自動運転車や無人の自動配送車が広範に社会に普及し始めていたので、そうしたシステムには高速処理が必須となる。つまり、それがサーバーの処理系において高負荷を与え続けるものとなるので、常に莫大な消費電力を喰うようなAI社会となっていたのだ。もし、電源喪失や高負荷によるサーバーのパンクでAIのコグニティブ・システムでの異常検出や安全確認処理が遅くなれば、それが人命にかかわるような甚大な事故やインシデントを引き起こす可能性があった。

このように、未来ではAIやIoTが人々の一挙手一投足を瞬時に把握し、かつ、その全データはすべてデータセンターにあるサーバー内に保管される。そして、2018年当時の人々のように、要らなくなったデータを破棄するという処理自体が未来のAI社会ではなくなっていた。なぜならデータは、のちに意外なことへの有効活用、再利用ができる可能性があるので、地球上のすべての生命の表現と人々の行動、振る舞い、意見、会話、考え、思いつき、感情の推移、毎日のバイタルデータは、天文学的な量へ至るほどに、すべてAIによって自動登録、保管されたのだった。

前回も書いたように、それがいよいよ地球上にあるデータセンターだけでは容量が処理しきれなくなりつつあったので、それを月などの他の星や宇宙空間に一部移管しようという案が出てきた程だった。そのため1つの惑星を地球のデータセンター用として開発し、使用するという革新的な案までもが本格的に識者の間では検討され始めてきた。

そして日本では、東日本大震災の3.11再来の前触れかと思わせるような大きな余震がその未来で頻繁に再び発生し始めていたので、データセンターをそうした自然災害や大地震が起こりやすい日本国内に敷設するよりも、月などの災害の少ないと思われる星や惑星に地球上で処理しきれなくなったデータセンターもろとも移管、構築した方が利点があるだろう、と考える日本の識者や科学者が出てきたのだ。

いくら日本国内に超高度な耐震・免震構造を持つデータセンターを作った所で、その想定を上回る大災害や大地震が起きれば、それらはブッラクアウトして、機能停止してしまうのだから。また、AI化した未来の社会では、天文学的な量に達したデータの処理で、あらゆるデータセンターからは膨大な熱を発生させる文字通り「熱い社会」となっており、未来の日本ではクリスマスシーズンやお正月、春先にもかかわらず、首都圏の気温が40度を超える日が何日かあったほどだった。その点で、データセンターを地球以外の冷たい他の星や宇宙空間に移管するという着想は、そうした加熱や放熱によるプロセッサーの処理速度遅延を回避できるという利点までもが考えられたのだ。

また未来では、そうした異常気象による地球環境の歪みが、日本だけでなく世界各国で発生していた。2018年の時点では地球温暖化説は誤りである、という異説が一部で流布していたが、それは似非科学的な誤謬に基づいた認識であったのが未来には判明した。だから、それは陰謀論と同じような妄想の産物であったことがのちに実証されたのだ。

こうしたAI化社会の到来によるデータ量の天文学的な増殖に伴う消費電力の大幅な増大は、AI自身によって予測されていたことなので、人々はその対策として、圧電素子を利用した床発電システムを用いることにした。それは振動や運動を電力へと変換する仕組みで、たとえば、東京駅や渋谷駅、橋梁や道路など、通行人や交通量の多い場所の道に圧電素子を埋設し、人々がその上を歩いたり、車が通ったりする振動の運動エネルギーをその圧電素子に伝え、それを電力に変換して蓄電装置に伝え、それを電力供給源として利用するというものである。

この圧電素子や床発電システムを未来の人々は、あらゆる都市圏、建物内、生活空間に導入したのだが、ここに大きな誤算があった。なぜなら、未来の社会では超高精細なホログラム技術が発達したおかげで、人々の間には通勤、通学という行為が著しく少なくなっており、そのため、駅構内や建物の床に埋設してある圧電素子の床発電システムによる電力供給がほとんど得られない、という事態に陥っていたからだ。

2018年当時のマスコミやジャーナリズムの論調だと、未来のAI化社会では、その最適化された知的コグニティブ・システムによって、地球環境にも優しい超低電力消費社会が実現される、と高々と謳っていたが、現実となった未来はその逆であることが判明した。つまり、AI自体が天文学的な量の情報をナノ秒ごとに自動生成するので、それを処理するためのプロセッサーやサーバーの消費電力も指数関数的に増えており、もはや、地球上にあるデータセンターだけではそれらを処理しきれない状態にまで窮していたのだ。

つまり、未来は人類社会全体が世界各国の同時多発的な電源喪失による「ブラックアウト」と機能停止となる真のリスクが、AIによってもたらされる可能性が発生したのだった。

2018年4月1日(日)

現代版デルフォイの神託としてのAI

「デルフォイの神託」は、古代ギリシャの都市国家ポリスのひとつであったデルフォイにあった神殿にある世界最古の神託所でなされる神託として有名なものだった。そこでは神憑りのなった巫女から、謎めいた詩の形式で神託が告げられる。古代ギリシャの人々は、その神託を尊重し、それはポリスの政策決定にも影響を与えたそうだ。

そのような古代ギリシャ世界での「デルフォイの神託」が、今後は、AIによる分析や解析へと人類は長い歴史を経て移行していくということになる。AIの指す囲碁の手は、宇宙人の手だと呼ばれることもあるように、AIの解析は、一般の人間の論理や感覚、感性からはかけ離れたエーリアンのような思考回路と発想を伴っているように私たちには映るかもしれない。

たとえば、ある人がダイエットを試みようとしている。人間のアドバイスなら、運動しなさいとか、糖質制限であるとか、玄米食、マクロビオティック、規則正しい生活、ストレスを溜めない、など、割と、どこかで一度は聞いたことがあるような凡庸なアドバイスがなされやすいと思う。

それに対してAIは、ダイエットのために、こんな風にアドバイスしたとする。

「これからあなたは1年間、毎日、6食を食べるようにしなさい」

AIの下したこのアドバイスは、人間には理解不能ではないだろうか。ただ、これを人間的な理解力のレベルで推論するに、たとえば、このように食べ過ぎること、強いてそれを名付けるなら「過食ダイエット法」で、その実践者がそれを実行するうちに、糖尿病や癌などの大病を患って、それで激ヤセが生じ、ダイエットが本当に実現するのかもしれないし、あるいは食事量の急変と急増に、遺伝子に突然変異が生じて、急に太りづらい体質に変わるなど、そういう身体的なメカニズムや代謝の変化をAIが分析しているのかもしれない。

ただ、それでも、なぜ、AIがダイエットのアドバイスに身体に危険そうな1日、6食もの過食を勧めているのかが、人間には皆目判らないのである。もちろん、実際に勇気ある被験者がこのAIのアドバイス通りに従って、身をもって実験をし、その効果を検証することも出来るであろうが、この過食により、実行者が甚大な健康被害を受けたり、日常生活に支障をきたすケースが考えられるので、倫理的な観点から言っても医学研究で治験する訳にもいかず、ただ、そうしたAIのアドバイスを鵜呑みにする、無謀な挑戦者たちを待つだけとなる。

このように、AIが謎めいた「デルフォイの神託」のような恐ろしいアドバイスを与えてくれても、人間はその宇宙人じみたAIの解析とアドバイスが本当に正しいのかどうかも判断できず、思考がフリーズしてしまう場面が、今後、多く出て来ることが考えられる。たとえば、政治家や公務員、官僚の一部をAIに代替させたとしよう。そのAI政治家やAI公務員、AI官僚の下す判断が本当に正しいのかどうかは、人間レベルの知力では決して判らない。

これがいわゆるAIの「ブラックボックス化」と言われている問題だ。「デルフォイの神託」の託宣が本当に正しいのかどうかが判らないのと同様に、AIの託宣も本当に正しいのかどうか判らない。こうして考えてみると、AIはデータサイエンスという高度な数学的衣装をまといながら、実は、巫女のような神秘的不可知性を伏在させているのではないだろうか。

普段、あまり、「AIは現代の神託だ」というような神秘主義的な見解には思い至らないものだけど、実態としては、それに近いのかもしれない。物理学などの科学でも、それを突き詰めていくと、そうした理解不能な領域(不可知)まで行けそうな感じがするように、AIもそうした不可知と未知を伏在させている。

今の日本の最重要課題は、これからの超高齢化社会をどうするのか、という問題だと思う。
そして、AIにその解決策を訊ねると、「消費税を0%にせよ」とのアドバイスがAIから得られたとする。消費税を0%にすることと、日本の超高齢化社会の問題を解決するのが、どのような理路と機制でつながっていくのか人間には皆目判らないが、とにかく、真に知的で卓越したAIは、そのように人間には直ちに理解不能な解析結果なり助言を提出するものだということは考えられる。ちなみに、単にそのAIの開発者が共産党の人間だったから、そのような恣意(志位)的な解析結果が出た、とも考えられるけど。

なぜなら、人間がすぐに思いつくようなレベルの一般的な解決案なら、わざわざ意思決定の場に実装の困難なAIを使うこともないであろうから。人間には簡単には見出せないような高度な判断や解決案を見出したいからAIを利用するのであって、誰にでも思いつくような凡庸な回答など、端からAIには求められていないのだ。

ということは、AIの非凡さというものは、AIの下す判断の理解しづらさ、不条理さと繋がっているようにも感じられるので、そうしたAIこそが、真に卓越したAIと言ってもいい気がする。ただそれと同時に、単にAI内部のバグなりデータの不具合や偏差でAIが誤謬推論をしているだけの恐れもあるので、そのAIの判断の正当性の是非が人間には困難になるのでないかと考えられる。いずれにしても、重大な意思決定をAIだけに委ねられる段階やフェーズにはまだ達してはおらず、テスラの自動運転車でも死傷者が出ているくらいなので、やはり、AIに完全にすべてを委ねられる段階からは、まだ遠いようにも感じられる。

ただ、よくよく考えてみると、人間のドライバーの運転でも毎日、世界各地で死傷者が出ているし、人間の判断や意思決定が間違っていることも多々あるので、AIだけに異常な水準の高さで完全性を求めて責めるというのも、アンフェアでおかしな話ではあると思う。

再度、今の日本の最重要課題は、超高齢化社会をどうするのか、という問題に戻り、AIに今日、そのアドバイスを求めてみよう。すると、AIの答えは、

「アントニオ猪木を次期、日本の総理大臣にせよ!!」

という俄かには信じ難い、衝撃的な内容だった。そういえば、この猪木議員は以前からよく北朝鮮に出向いていたようなので、そこに何か恐ろしく錯綜した、問題解決への理路が含まれているのかもしれない。あるいは、アントニオ猪木が次期、総理大臣になることで、最近、ようやく沈静化してきたかに見える北朝鮮の核ミサイルが、再度、日本の老人が多い居住地域に飛来してくる恐れやメカニズムが、彼が総理大臣になることで出来するのかもしれない。それとも、次期、総理大臣になった猪木議員の「元気ですか!!」の毎日の呼びかけで、魔法のように日本の超高齢化社会の問題が氷解するのかもしれない。また、同時に、拉致問題が解決されるたりするのかもしれない。

ただ、一番あり得そうな解釈は、たぶん、このAIは、今日が4月1日のエープリルフールなので、今日は少し出鱈目を言っても許されるかな、という判断だと、作者は推測してみた。

2018年10月27日(土)

資本家独占の超高性能AIによる巨大搾取

かつてマルクスは、その労働過程において、資本家は工場や土地、設備などの生産手段を有し、そこから作られる生産物を所有するのに対して、労働者はそれらの所有が出来ないので、搾取の対象になる、といったことを述べた。そして、賃金労働者は、賃金以上の労働をすることによって価値を生み出すことを要請されている。この賃金以上の労働によって得られる価値が「剰余価値」と呼ばれるもので、これが資本家の利潤や富の源泉となるものだ。日本の大企業で、よく内部留保が云々と言われるのも、こうした資本家の剰余価値、あるいは搾取したものと表現しても差し支えないだろう。もちろん、不況などに備える準備金としても側面もあるだろうが、それでも巨大な内部留保は、搾取により得られた過大な「剰余価値」と表現してみても良さそうだ。

そして、資本家やその一族、大企業が先端技術の粋を集めた超知性化されたAIを生産手段として保持すると、一体どういった事態が生じるかを考えてみたい。彼らが占有する超知性化したAIとは、平均的な人間の知性では太刀打ちできないような超越的な知能を有するAIとみなしておけばいいだろう。それはAI棋士に敗れる名人棋士を想像すれば分ると思う。人間では決して敵わない傑出した知性を持つ汎用型の超知性AIが今後、開発される可能性があってもおかしくない。そして、それが開発された暁には、それを一番最初に入手しやすい者は、当然、巨大資本を持つ大企業であったり、資本家や富裕層になる訳で、普通のサラリーマンがそれらに最初にアクセスするということは、いくらオープンソースの時代であるとはいえ、なかなか困難であるはずだ。

かつての戦時中、ドイツではヒトラーに大衆が扇動され、洗脳されていたように、これからの未来では巨大知性を有したAIに一般大衆は扇動され、洗脳されるようになるかもしれない。人間心理、脳機能、行動経済学、哲学、宗教、すべての人間的な知を解析し尽くしたその巨大知性AIは、人間を目的の方向へ向かって誘導することなど、たやすく出来るようになるかもしれない。オウム真理教の麻原彰晃でさえ、あれだけ信者を洗脳出来たのだから、その教祖を遥かに上回る知性を持ったAIが一般大衆を洗脳し、誘導することくらい簡単に出来てもおかしくない。そうしたAIを資本家や一部の何兆円もの資産を持つ超富裕層が独占・占有したら、そこには一体どんな社会のディストピアが生まれるのか、少し想像したくなる。

それは、超知性化したAIをマルクスの言う生産手段として独占し得る資本家と超富裕層、つまり、人類の0.000001%の数の人間だけが幸福に人間らしく生きられて、残りの人類の多くは搾取の対象となり、非人間的に、疎外された状態で、奴隷のように自由がない状態で生きることを強制されるのかもしれない。しかも、超知性化したAIはそれを強制とは一般大衆に全く気づかれることなく、巧みに、彼ら自身がそれを心底望んで選択したように思い込ませるような洗脳技術を獲得するかもしれない。オウム真理教の場合は薬物などを使ってそれを行ったらしいが、さて、悪徳資本家が超知性化したAIを悪用した場合は、どういった洗脳技術を使うのだろうか。

現代では街中でデジタルサイネージがやたら増えており、それはかつての看板よりも情報をアップデートしながら随時表示出来るので、より多くの宣伝媒体として機能することから使われるようにもなっているのだろう。電通を見れば分るように、広告というのは一種の洗脳媒体であるので、広告だらけの都市圏に住めば、私たちが資本主義に洗脳されてしまうのも無理はないのかもしれない。それは北朝鮮で、偉大なる領袖の金一族や金正恩と始終聞かされていれば、そうだ、そうだ、となるように、私たちも広告まみれの日常世界にいれば、この消費社会と資本主義社会こそ正しいし、普通だ、と思い込まされてしまうのも無理のない話だろう。

そもそも、人はこの地球や世界に生まれてきた時、何も持って生まれて来なかったはずだ。地球は誰のモノでもないし、太陽も森も川も海も空気もそうだ。人間だけのモノではないし、他の生物にとっても植物にとっても必要なものだ。そうした中で、ごく一部の資本家や富裕層だけが地上の富を我が物顔で独占・占有することは、本当に正しい、正当なことなのだろうか。たとえば、アラブ諸国ではオイルや原油で富を築いたりするのだが、そのオイルは本当に彼らの占有物であっていいのだろうか。それは本来、地球の資源であり、つまり、もともとはこの地球や宇宙の所有物や持ち物であって、アラブの王様たちが独占して使っていいものではないはずだ。たまたまオイルが出るような地域で生まれたからと言って、それを我が物のように独占して占有し、それで富をかき集めるようなことは、本当は、変なことなのかもしれない。碌に食べるものもなかったり、学校さえ行けない子供もいる中で、そうした資本家は己の利得のためだけに富を独占・占有しながら、そのあり方に疑問を感じていない。こういう資本主義が果たして、本当に正しい人間的な社会のあり方なのかどうかは、かなり疑問が残るところではあると思う。

だから、超知性化したAIの正しい使い途のひとつは、そうした資本家によって独占・占有された富を再分配して、この世界から不平等や搾取を無くすように企図することである。現代日本の場合だと派遣で働く人々が多く、それは心もとない状態である。病気になったり、解雇になれば、すぐに窮することも考えらえる。失業保険やわずかな貯金でずっと凌げる保障もないので、やはり、ここは資本家や富裕層に協力してもらいベーシックインカムなどの財源をそこから捻出して、そうした不安定な状態で働く搾取されやすい側にいる人たちの支援金なり、保険として、そうしたセーフティーネットが常に完備されている状態が望ましい。現に経済的理由で病院にも掛かれず、自殺する人たちもいるのが現代の日本である。日本の自殺者は随分減って年間2万人台になったと統計上では出ているが、政府統計など、最近の続発している官公庁のデータ改竄の報道に触れれば分る通り、官僚の忖度で出鱈目に加工、印象操作できるので、WHO(世界保健機関)の基準であれば、日本の年間自殺者は実際は10万人以上いても別におかしくないだろう。変死者を自殺者にカウントしない日本の自殺者統計は、そもそもデータとしてかなり疑わしいものだとみなしておけば、まず間違いないだろう。

結論を言えば、資本家や富裕層は超知性化したAIを使って一般大衆からさらに搾取するのでなく、それを貧しく弱い立場の一般大衆や生産手段を持たない賃金労働者へと還元することに協力することで、真の豊かな尊敬に値する人間になり得るということだ。タックスヘイブンを利用している富裕層が尊敬される訳があるまい。この世界や地球、宇宙は富める者たちのためだけにあるのでなくて、すべての存在者のためにあるのだということを忘れないでもらいたい

2018年10月29日(月)

AIによるダウンシフト型の脱資本主義社会

AI関連の記事なり書籍を読むと、どうも、AIを資本主義的な貨幣や資本の増殖を加速する道具としてのみ扱おうというスタンスがやたら多いように見受けられる。だが少しその観点を変えて、AIを資本の自己増殖運動や暴走、格差社会を制御するものとして、用いてみたらどうだろうか。賃金はそのままで、労働時間が少なくなってくれれば、人々はそれで空いた時間を余暇や学習、趣味、レジャー、文化的な活動、スポーツ、自己省察などにその時間を有効活用できる。このようになれば、育児や家事に男性が手を貸す余力や体力、リソースも増えるだろうし、それで女性の育児の負担も減って、家庭も円満となり、浮気や不倫、それを理由とした離婚も今よりは遥かに少なくなる可能性がありそうだ。

しかし、生産工程や現場でのAI導入は、そうした観点で導入されているようには映らず、資本家による賃金労働者からの搾取をより合理的に効率的に進めるためのものだと言われてもおかしくない状況にありそうだ。たとえば、今までは1時間で、ある生産物Xを1000個作っていたものを、AI導入で生産ラインや動線が合理化された効果で1500個作れるようになったというケースを考えてみたい。この時、その時間あたりの作業効率は1.5倍になったと言えるが、これだけだとAI導入で利得を得るのは資本家や株主ばかりであり、そこで働く従業員には何のメリットもない。AI導入で、賃金が1.5倍に増える、あるいは、休日や有給、ボーナスが1.5倍に増えるというのでもない限り、現場で働く人々は賢いAI導入で業務が楽になるどころか、より忙しく隙きなく働かされるような不自由な感覚を持たないであろうか。あるいは、AI導入で、製品の価格が格安になるのであれば、それは庶民や一般ユーザーにとってはメリットとなるだろうが。

だが、ビジネスシーンにおいて、やたらAI導入の必要性が謳われているものの、それは業務の効率化や合理化、最適化の話ばかりで、AIが組織に導入された暁には一体誰が快適になり、誰の得になり、誰が幸せになるのかが全く不明瞭になっている。そのためAIによって合理化や効率化がどれほど達成されても、それがその企業や組織の内部留保へとAI導入で得られた利潤や付加価値が蓄積されるだけならば、得するのは資本家と不労所得を得ようとする株主だけであり、従業員にも消費者にも何のメリットも価値もない無慈悲なAIやクラウド導入ということになる。

それを悪しきAIとでも呼んでおけばいいだろう。日本では過労や搾取、パワハラ、セクハラ、派遣の不安定雇用などで心の病になったり、鬱になったり、家庭が崩壊したり、癌になったり、自殺したりと、要するに長時間働きすぎで、自分や家族の身体や精神を破壊しやすい企業組織文化があるので、AI導入でそうした日本の宿痾とでも呼べる会社病を撲滅すること自体が、本来の正しいAIの導入の意義ではないかと考えられる。

電通で東大女子が自殺した事件も、あのような古い時代遅れの組織文化がある企業で、過労とパワハラで精神の調子をおかしくされたのだろう。たとえ頭脳明晰な者でも、そんな過酷な環境で働かされれば、出来の良い若い脳さえストレスで破壊されてしまうのだろう。日本の労働生産性が国際的に異常に低いことはよく報道されているが、要は、昔ながらの軍隊、体育会系の精神論、根性論、怪我人続出でもやめない組体操など、真の合理性を軽視して、だらだらと長時間労働を強要するような日本の企業文化自体が全く時代にそぐわないものになっているのだろう。

イタリアの「五つ星運動」という比較的最近できた新しい政党は、反資本主義やダウンシフト(スローライフ)、環境保全を党の綱領として掲げているようだ。反資本主義は、環境破壊をやめるための反グローバリゼーションという観点なのだろうか。空洞化した地域コミュニティーを再建したい、ということもあるようだ。そのような「五つ星運動」から輩出された美人で知られるローマのラッジ市長は、24年の五輪の招致断念を表明した。イタリアは未だ財政難なので、ローマでの五輪招致は無理だと判断したようだ。ラッジ市長のインタビューによると、1960年に開催されたオリンピックの借金が現在でもまだ残っているらしい。
日本も少子高齢化や財政難ゆえに消費増税10%が来秋に控えているというのに、カジノやオリンピックと相変わらず無駄な大型出費をすることに余念がないようである。そういう自民党政権を国民の半数が支持しているという、ある意味、異常な国家になっている。

普通であれば、政治家や公務員の高すぎる給料や手当、無駄な投薬、過剰医療など、財政支出をカットできそうな項目は、きちんと精査すればいくらでもありそうなのに、それを全くせず、薬物ジャンキーのように、安易な増税のオンパレードを続けるのである。そして、なんと、日本人の半数が消費増税10%を支持しているらしい。新聞社の世論調査も本当かどうかデータ改ざんの多い昨今の日本社会だとなんとも言えないが、とにかく、官邸による消費増税しないと今後の社会保障の財源が確保できない、という脅しや洗脳は国民の半数には浸透しているようである。

そもそも日本人は、お上をやたら信用しすぎるきらいがあるのではないだろうか。だから、神風特攻などという無謀な軍事作戦にまで国民が大挙して突入してしまうのであって、普段からもっと、お上や政治家、社会に対して健全な懐疑の目なり、批評的な精神を有しているならば、そんな風にはならないように思われる。だいたい読売新聞などは、明らかにただの現政権応援団で社会の木鐸としてのジャーナリズムの機能を全く果たしてないし、宗教法人をバックにした政党なども政教分離のコードに明らかに違反しているのではないだろうか。なんでも権威やお上の言うことを盲信するのでなく、斜めからモノを見たり、自分自身の頭でよく考えてみるという健全な批評精神を日本人は取り戻すべきなのではないだろうか。

AIやロボティクス導入で、無能な政治家の人数が減り、お役所仕事の無能な公務員の数が減り、医療や介護での無駄な投薬や検査、受診、ドクターショッピング、重労働が減り、賃金がアップしたり、有給や休暇、賃金が減ることなく就労時間が減れば、それは良きAIを社会の中に導入したことになる。人々は、そういうAIこそが必要であるという共同意識を持った方がいいと思われる。でないと、AIは単なるより合理的な資本家や株主の利益のための生産手段や搾取の道具となって、身分の不安定な賃金労働者はそのAIの存在に脅かされるという不幸な事態に陥ってしまうからだ。それは雇用不安もあるだろうし、逆に、より酷使される、働かされる、どこでもAIとセンサーに監視されてストレスを感じるというケースもあるだろうから。

そこでAIによって先導すべき新しい社会モデルは、ダウンシフト型の脱資本主義社会ではないか、という仮説を立ててみたい。創造性の発揮という観点でも長時間労働は良くないはずだ。日本人は物真似やブラッシュアップばかりで創造性がないと言われるのも、それを生み出す余白なり余裕がないからではないだろうか。脳科学的な観点では、創造性を発揮するには、脳がデフォルト・モード・ネットワークという安静状態になっていることが必要なようだ。それは、ぼーっとしていたり、ぼんやり何もしない、何も考えない状態。

アップルのジョブズは日本の禅にはまっていて、日本人の禅の師匠もいたらしいが、彼の傑出した創造性もそういう空の状態から湧き出てきたもの、と考えてみても良さそうだ。邪念や雑念、心配や不安のない心や脳の状態。心を亡くすと書いて、「忙しい」と書くけれど、心を亡くすのでなく、心を空にしてリフレッシュする時間や空間がもっと日本社会には必要なのではないだろうか。たえずSNSやLINE、スマホをチェックしている状態では、脳が常に過剰に作動しているオーバーヒート状態なので、脳疲労を起こし、かえって真のクリエイティビティを発揮することを阻害するようにも思われる。

2018年10月31日(水)

消費税0%へのAI的な社会実装

最近、来秋に予定されている消費増税10%による景気低迷への配慮からか、コンビニでキャッシュレスで決済した顧客にはポイントやトークンで増税分を還元する案や食料品だけに軽減税率を課すなど、要するに消費者や顧客にとって、あるいは、小売店舗やそれに対応するシステム導入を準備する側にとっては手続きが煩雑になり、一部、それらが混乱することが予想される。
そこで、そうした小手先の弥縫策を取るのをやめて、消費税0%、すなわち、消費税が廃止された社会実装なり社会モデルというのを構想してみるのはどうだろうか。えーまさか、そんなの夢物語だろう、これからの少子高齢化で消費税を0%にして、どうやって社会保障の財源を用意するのだ、という反応がかえってきそうだが、そんなものはいくらでも考えられる。いくつか、列挙してみよう。

まず、相続財産の撤廃。相続税も累進構造になっているとはいえ、やはり富裕層に圧倒的に有利な制度であるし、母子家庭や経済環境に恵まれていない者は、そもそも相続財産が全く与えられられないどころか、下手すると両親や身内の負債を抱え込むリスクさえあるので、そもそも相続というのが不平等の存続の温床や原因にもなるので、相続税を100%に近づけることで、相続という長年の経済行為自体を最終的に廃止するのが望ましいだろう。そして、そこから得られた新たな財源で、成人した国民一人当たりに、ある程度の資金なり無償の社会保障、保険、ベーシックインカム等を再配分するという方途や方向性があるのが望ましい。

政治家と上級公務員の給与とボーナス、手当を15%から20%カットすることも議論し、考えていくのもいいだろう。だいたい事務職が多いお役所仕事は、今後は不眠不休で働けるAIで代替すればいいのであって、非効率な「お役所仕事」に高い給与や過剰な福利厚生を付与し続けるのはアンフェアであるので、ここをカットしたことで新たに生じた財源を消費税0%へするための財源にするといいだろう。

つい先日、イギリスの議会が、2020年4月から世界売上高が年5億英ポンド(約720億円)以上のIT企業に対して、その売上に2%の税率でDigital Services Taxを課すと発表したが、そうした巨大IT企業だけでなく、日本なら、ユニクロやソフトバンク、携帯キャリア、トヨタ、ZOZOTOWNなど、巨額の利益を得ている法人に対して、新たなデジタル課税を課すというのも良いだろう。要するに、企業の超過的と思われる利益に課税して、それを社会に還流する流れを新たに作ればいいのである。少子高齢化で財源が足りないのだから、厚遇された政治家や公務員、日本でビジネス活動するIT巨大企業にも新たな協力要請が加わるのは当然である。最も余裕のある彼らが最初にそうした義務を負うべきなのは、ある意味で、当然ではないだろうか。

だが、そうした上層の国民以外の日本人は総じてお人好しのいい人であって、決して消費税を0%にすべきだ、などという声はあがらないし、そんなことが実現できる訳がないと、はなから諦めきって、お上の理不尽な年貢追加要請に、搾取された古の小作人のように、従順に頭をうなだれたまま賛意を表明してしまう。それでは現代ではだめなのだ。何のためにSNSやtwitter、ブログがあるのか、もう一度、よく考えてみて欲しい。そういう理不尽な社会や政治の要請に対して、反対の声を上げていくことにもそれらは使えるはずだ。その声が巨大になればマスコミもテレビも政治家も無視出来ないものになってくるだろうし、世界的にそれらは報道されるし、それは既定路線の現実や社会を変える現実的な巨大なパワーへと結集することにもなるのだということを、もっと人々は理解すべきであると思う。

だいたい、国会議員だけでなく、地方議員もろくにまともな仕事もしてない状態で、高額の給与や報酬、福利厚生を得ている時点でおかしいし、世襲という形で、政治家という職業は家業のごとき観を呈している。本来、政治家などは無給の名誉職、ノブレス・オブリージュとして騎士道、武士道精神で清貧を覚悟できるような知性、品性、人格ともに卓越した人物が従事するものであって、善良な人のいい庶民や国民にはあらゆる名目で安易な増税を強いて、自分たちの給与はしれーっと上げ続けるという態度そのものは国を代表する選民ではなく、国を代表する賤民であると言えないだろうか。

だから、政治家が忖度、身贔屓、違法な利益供与、選挙資金の不正入手などでしばし事件化したり、報道されるのも、そもそも彼らが私益追求のために政治家になったからではないだろうかと考えたくもなる。公益のために、社会のために、日本に住む国民や市民の幸福のために彼らが活動したいと本気で願っていて、それから出てくる政策が馬鹿でも思いつきそうな安易な増税というのは、あり得ないことだろう。
また、現代社会がAI導入が本格化しテクノロジーが第二の自然となる21世紀ということを鑑みれば、やはり低所得層や庶民にとって逆進的に作用する消費増税は、創意工夫が全く感じられない時代遅れの安易な付け焼き刃の対処療法だとしか思えない。

現代の世界において、経済上で最も優先すべきことは環境問題と格差是正である。そのためグローバル大企業の法人税や所得税の累進率を上げていくこと、もしくは大企業の巨大な内部留保という資金ストックに課税をし、そこから得られた新たな財源を消費税0%へ向けた財源へと徐々に資金シフトするようにすれば、ごく一部の優遇された大企業や政治家、公務員だけが有利で幸福となり、恵まれた経済環境や人生を享受するという不公平社会の是正への良き第一歩として、それはつながっていくだろう。

本来、経済やテクノロジーはそうした平等性、公平性を有した社会を形成するために使用すべきであって、ごく一部の階層の者だけが過剰に優遇されたり、いい思いをするためのものではないと思う。経済は、もともと「経世済民」の略のことなので、苦しむ民を救う、救済するためにある。苦しむ民や労働者からさらに搾取しようとするのは経済とは呼べない。私腹を肥やすのが経済ではない。

以前、デジタル・ディバイドという言葉が聞かれたことがあったが、テクノロジーも、そうした格差を作るためではなく、AIもそうだが、社会に広がる格差、たとえば経済格差、教育格差、公共サービスへアクセス権の格差(離島、過疎地に住む人々などが受ける医療など)を縮める方向へと経済とテクノロジーを新たに社会実装していかなければならない。この基本的なベクトルと目的を忘れてはならないだろう。移民問題が世界で持ち上がるのも、そこに理不尽な巨大な格差があるから発生するのであって、その原因を根治しないことには、いくら高い壁を築こうが、移民問題など永久に解決する訳もないのである。

そうした格差是正をまず科学技術立国で、ノーベル賞受賞者も多く、賢い国民が多いと言われる日本で、最初にそうした先進的な新しい社会モデルを実現し、それを成功させれば、世界の他の先進各国もこれから日本のような超高齢化社会に向かうのだから、その日本の成功モデルに学び、それに追随することになるだろう。消費税を0%、相続税を100%にし、政治家と公務員の給与や報酬をカットし、それらで出来た資金を成人した全国民にベーシックインカムや負の所得税として再配分するという画期的な社会モデルを実現し、それを見事に成功させた日本に学べ!という明るい機運が世界的に広がって、それで世界中から格差や不平等、不公平が撲滅された、経済利益だけでなく、環境保全もきちんと考えられた持続維持できる未来のAI社会が真に実装可能になってくると思われる。

2018年11月3日(土)

ジニ係数1の悪夢の世界

「ジニ係数」というのは、所得分配や資産の不平等を図る指標で、その拡張としては、富の偏在性やエネルギー消費の不平等さを図るものなどにも応用される。1936年にイタリアの統計学者コラド・ジニによって考案されたもので、それを大まかに言えば、社会的不平等を図る指標や係数だと考えておけば差し支えないだろう。ジニ係数の取る値の範囲は0から1なので、係数が1に近いほど、その集団や社会の格差が大きいという指標になる。

BMI指数が適正体重の指標になるように、ジニ係数は不平等や格差の指標になるということだ。今回のブログのタイトルは、「ジニ係数1の悪夢の世界」となっているので、それは一体どのような状態かというと、たった一人の超越的な支配者が、その他すべての人々の所得や富、資産を独占しているようなシュールな状態である。逆に、ジニ係数が0になった社会というのは、その社会の人々の所得が均一で格差が全くない状態となる。

日本はアメリカに比べると格差の少ない社会だと喧伝されているが、それでも日本の貧困レベルはOECD諸国の中で4番目に高いと指摘されている。ジニ係数が0.4で社会的な騒乱が多発しやすいレベル、ジニ係数が0.5~0.6だと慢性的に暴動が起こりやすいレベルと言われている。ジニ係数のレベルごとで、世界地図で色分けされた国際統計のマップがあるので、興味がある読者はそれらを参照されるとよいだろう。その分布の傾向をおおまかに言うと、日本と比べてヨーロッパ諸国や北欧はジニ係数が低い傾向にある。

つまり、所得上の格差が少ない社会になっているイメージだ。逆に、日本と比べて高いのはアメリカや中国である。世界全体でジニ係数が高い地域は南アフリカや南米で、格差の大きい社会だと言える。それらの国々の社会では、ごく一部の支配層が、その社会の資産や富を独占的に専有している、ということがジニ係数だけでもおおよそ掴める感じになっている。

日本はアメリカと中国と比べればジニ係数は低い、つまり、所得上の格差は少ない社会だが、それでもZOZOTOWNの社長のように月旅行で総額750億円も支払えるIT長者もいれば、自殺した16歳の農業アイドルのように、高校の制服代や学費の支払いに困り、その弱みにつけ込んだ所属芸能事務所の金銭的脅しなど、要は、日本社会でもそうした経済的格差が厳然として存在しているのである。

今日のニュースによると、国内最大の官民ファンド、産業革新投資機構(JIC)の経営陣に、年収1億円超えの高額の成功報酬案を導入する模様である。民間ファンドで適度な成功報酬を組むのであれば、それほど問題だとは思えないが、そこに公的資金という官の要素があるファンドであるのにもかかわらず、そこに多額の成功報酬を付加しようとする案あるでらしい。

この国では政治家の忖度や資金不正をみれば分かるように、パブリック・サーバントという言葉や概念がもはや死語になりつつある腐りきった社会となっている。貪欲な私益の追求に走っていても少しも疑問を感じることのない政治家や官僚の存在。そうした私益追求に余念のない下賤な彼らのことだから、そのうち、政治家や公務員にも成功報酬を付けるように、国民を騙して法改正してくるかもしれない。

消費増税に関しては自民党は財政難の捏造・改ざんデータを提示しながら、10%どころか20%、30%といったさらなる増税プランも10%消費増税後には要請してくると思われるので、まさにそうした政治家と公務員、官僚を平等で公平、選り好みと忖度、不正をしないAIやロボティクスへと代替すべき倫理的な要請が、今後の日本社会にも現実的に生じてくることだろう。要は、そのニーズに国民や市民がいち早く気づいて、それに声を上げれば良いのである。

GAFA(ガーファ)のような巨大IT企業群も検索歴や買い物履歴などの膨大な個人データを収集するだけでなく、市民や人々の現場の政治や経済体制の不満の声を蓄積して、それが巨大になった人々の不満と怒り、境遇の改善要求の声を署名活動のように一貫性のあるものにまとめて、それを社会や政治をより公平で平等、格差や差別のないものへと是正するツールとして使ってくれれば、それは彼らの優れたフィランソロピー活動として、国際的にも高く評価されるのではないだろうか。私企業であるので、彼らが私益の邁進に進むのはある程度は仕方ないが、それでも単なる私益を超えた公共的観点をGAFA(ガーファ)のような巨大IT企業が率先して示せば、彼らの社会的存在として価値は、より高まるのではないだろうか。

いずれにしても、ジニ係数が1となるような独占状態は、社会全体がいわば奴隷社会に退行しているような原始的社会モデルであり、それは現在では人権の観点からも好ましくは映らない。格差社会は決してクールではないのだ。以前、クール・ジャパンという言葉が一時流行ったが、月旅行へ高額チケット代を払っていける人間と高校の学費や制服代さえ払えず自殺するような生徒が共存しているような格差社会は、全くクールではないのだ。それは、寒々しい日本なのだ。

そのため、その大まかな方向性としては、ジニ係数を0にしていく方向の社会モデルの方が望ましいだろう。その新しい社会とは、完全平等社会であり、すべての人の所得や資産格差が全くない状態である。
私たち日本人や先進国の人々は、生まれた時から資本主義的な社会モデルで生きているので、そういう資本主義的な格差が当たり前だとみなしがちだが、社会正義の観点から考えると、格差の存在は、あまり好ましいものではない。街に多くの失業者や貧しいシングルマザー、ホームレスがいるような社会が果たして望ましいであろうか。ごく一握りの人間だけが高額なチケット代を支払って月旅行ができるほどに豊かな人生を楽しめて、逆に、経済上の理由で、希望も前途もなく、若くして将来に絶望して自殺するような格差を生む資本主義社会は本当にあるべき望ましい社会の姿なのであろうか。

筆者はなにも資本主義を完全否定しているのでも、私有を認めない共産主義者でもない。歴史を見れば分かる通り、旧共産国の方がより一部の支配層が人々を搾取、抑圧、弾圧してきたのは一目瞭然だ。では、何が望ましいのかといえば、現代の格差を生むような巨大な資本主義の暴走に箍(たが)をかけて、それをより社会正義と格差を是正する方向へと舵をきるようにすることだ。だから、GAFA(ガーファ)のような巨大IT企業にも、そうした社会正義を実現するための協力を呼びかけているのだ。

IT企業などというのは、もともと革新的なことが大好きなリベラルなテクノロジーオタクやギークな連中が集まっていると思われるので、ジニ係数が0になった格差0の社会モデルなんて、逆に、一体どんな新しい世界が誕生するのか、ワクワクしてくる要素がないだろうか。たとえ、そのような新世界で人々が仕事をするとしても、それは報酬のためでも資本の増殖のためでもなく、それ以外の、新しいファクターがその中心的なモチベーションとなっているはずだ。なぜなら、ジニ係数が0になった社会とは所得と資産、富の偏在のなくなった前代未聞の社会であるので、そこでは報酬の獲得が仕事の主な目的では既になくなっているからだ。

そういう意味で、ユニクロやソフトバンクはまだまだ遅れた後進的モデルに基づいた大企業だと言える。なぜなら、彼らは貨幣と資本の自動増殖運動を日々目指しているだけであり、そこには社会から理不尽さや不平等、格差をなくすといった明確なビジョンなどは微塵も感じられないからだ。そのため彼らは単なる物神崇拝の巨人だと言われても、おかしくない。企業にも社会的なヴィジョンやフィランソロピーというものが必要であって、単なる私益の追求という大企業のあり方は、クールさが欠落した野蛮な感じがしないだろうか。

2018年11月5日(月)

21世紀のチャーティスト運動を展開しよう

「チャーティスト運動」というのは、1838年にイギリスで始まった世界最初の労働運動のことである。当時、工場などでは昼夜2交代制の過酷な12時間制労働が普通の状態であった。児童労働もあった。それを10時間制労働へと、労働者による労働環境の改善要求として掲げられた運動である。現代でも日本の企業では労働基準法を大幅に無視したブラック職場が多いし、IT土方などという自虐的な揶揄があるように先端分野の企業でも、その労働環境は心身の健康にとって好ましい状態だとは言えない。

GAFAのような巨大IT企業群でも、アマゾンが物流現場で働く人々を低賃金で長時間働かせている問題も報道で目にすることがある。つまり、1838年当時の「チャーティスト運動」が起こった原因となる資本家による労働者の搾取や労働環境、待遇の過酷さは、それから180年近く経った現代でも未だ続いているということである。

歴史を見れば分かる通り、資本主義の本質には資本家や支配層による搾取があると考えられる。資本家は、労働者の「剰余労働時間」をなるべく増やして、利潤の拡大を画策する。剰余労働時間というのは、労働者が自分自身の賃金分を超えた領域に配分される労働時間のことである。たとえば、8時間労働で日給1万円の者が、5時間分の労働で自分の賃金分を生産したり、稼ぐとすると、8 – 5 = 3 の3時間分が資本家の利益分となる剰余労働時間という計算になる。このケースだと、自分の賃金の分働いた5時間分の労働時間を「必要労働時間」と呼ぶ。

仮に経営者や資本家が合理化目的で最新のAIやロボティクスを導入して、この必要労働時間を3時間にしたとすると、先程の計算は、

8 – 3 = 5 となって、5時間分が会社や資本家の利益や利潤、剰余価値となる「剰余労働時間」となる。つまり、先程の計算より、労働者は2時間分搾取されていることになる。AIや最先端の技術の導入で生産性が上がった分が、労働者の賃金上昇に適正に反映されるのであれば、搾取とはならないが、企業の内部留保の増大を考えてみれば、そんなに簡単に増加分の剰余労働時間が、労働者に還元されると考えることは出来ないだろう。

21世紀の「チャーティスト運動」を展開しよう、という時、まずその前段階には、資本家や株主の利益ばかりを過剰に尊重するこの資本主義社会の構造そのものに大いなる疑義にかけることが、人々の間の社会の共通認識としてもっと醸成された方が良い感じがする。電通のように搾取を続け、有能な新卒社員を長時間労働させてうつ病、自殺にまで追い込むその過酷な経営方針は、未だ資本主義の暴走と搾取が社会的に適正に制御されていないことを如実に示している。労働基準法などというのも建前の法律のようなもので、それを真面目に遵守しているような優良企業は、サービス残業が一般的となっている日本の企業では、むしろ少数派に属するものであろう。

その証拠に政府は、高度プロフェッショナル制度や裁量労働制でそれに該当する労働者を労働時間規制から外す制度を「働き方改革」などと称して称揚しているが、要するにこれらの制度は、経団連の要望で労働者を労働時間の規制に縛られることなく搾取することを可能とする法律のことなので、先に述べた資本家や株主の利益のみとなる「剰余労働時間」を増やすための悪しき制度だと思われる。つまり、搾取を法的に認めるような制度だとみなしておけばいい。

以前、青色発光ダイオード(LED)を開発してノーベル物理学賞を受賞した3人のうちの1人である中村修二氏は、それを開発した当時、その所属先の化学企業に莫大な利益をもたらしたにもかかわらず、数万円の賞与アップがあっただけのようだ。その後、中村氏が職務発明した404特許と呼ばれる特許を巡る裁判で、結局、中村修二氏の訴えが正しいことが分かり、この化学メーカの企業は彼に404特許を含む関連特許の相当対価として、約8億4000万円を中村に支払うことで和解が成立したようだ。

つまり、この化学メーカーは、少なくとも約8億4000万円を中村氏から剰余価値として搾取していたことになる。これは日本の企業体質をよく象徴しているケースだとみなして間違いないだろう。社員がもたらした莫大な利益は、会社の利益として全部、搾取し、その社員には微塵も還元しようとしなかったのである。

そして、現代は企業の至るところで、AIやロボティクス導入による業務の合理化、自動化、無人化が謳われ、メディアを通して喧伝されている。業務が合理・効率化することはもちろん、好ましいだろう。だが、経営者や資本家はそれで生み出された新たな剰余価値や剰余労働時間、利潤を己の利益として搾取するだけで、もしくは、巨大な内部留保として守銭奴のように貯め込むだけで、果たして社会的な存在と胸を張って言えるのであろうか。

AIやロボティクスの導入は、そこで働く労働者を搾取したり、疎外するツールになってはならない。資本主義的な高度な分業体制は得てして、その下で働く人々を単なる巨大な機械の部品として疎外する。チャップリンの映画「モダンタイムス」のテーマが、そうした機械による労働者の疎外、というものであったらしい。

そもそも機械やテクノロジーはすべての人々を幸福にするための道具として使うべきであって、それを資本家なり、株主、ごく一部の層だけがそれで利益や利潤を独占的に拡大するツールであってはならないだろう。

資本主義は資本家のためだけにあるのでもなく、株主利益のためだけにあるのでもなく、そこで働く派遣やパートを含めた労働者やそこの商品や製品を用いるユーザーや消費者、そして、その商品を形成するために必要な地球環境資源もあるのだから、資本主義が自然破壊や公害等による環境破壊を作ることは許されない。自宅の窓には昼夜通行する車の排気ガスによる黒い埃がすぐに溜まる現状では、資本主義をそのままでよしとする訳にはいかないだろう。

社会のAI化によってまず実現すべきなのは、高度プロフェッショナル制度や裁量労働制で労働者からさらに搾取しようと画策する経団連やその支援先の自民党が進める「働き方改革」ではなく、21世紀の「チャーティスト運動」なのである。この運動は、労働者の境遇改善を訴える社会改革や社会変革のみならず、資産の有無によって制限されていた選挙権を変革しよう企図する政治改革の運動でもあった。つまり、当時は現代と比べて、人権が大きく制限されていた状態であったと言っていいだろう。

ただし現代においても、日本を見れば分かる通り、労働基準法というの労働者の権利を守るための法律は、張り子の虎のように有名無実化しているのが現状だ。報道されているのはごく一部で、ごく目立つ例だけだ。日本の企業社会の実態は、ほとんどがブラック環境にあると言っても、決して言い過ぎではないだろう。誰のための、何のための資本主義なのかを一度、皆で考えて見て欲しい。それは決して資本家やごく一部の支配層のための資本主義ではあってはならないはずだ。

これからは、搾取を良しとする欲望・奴隷型の資本主義でなく、その富をより広く社会へ適正に還元する公共型の資本主義が世界的にも求められていくはずだ。公共型であるのだから、自然環境や社会的弱者、労働者、消費者にも配慮するし、遺伝子組み換え食品を使って、人々の健康をリスクに晒すようなこともしない。資本は本来、自然や動物、宇宙を含めた、すべての存在者のためにあるのであって、そこから得られたリソースを公平に分配、差配するように扱うのが、その本来的な資本の正しい用い方なのではないだろうか。

2019年1月22日(火)

AIとテクノロジーのスレイブと化した現代人

テクノロジーは物事を効率化・合理化し、人々の生活を向上させると謳われ信じられているが、それにもかかわらず、現代の人々は異常なほどの多忙に陥っている気がする。いろいろなSNSの通知、大量に流れてくるニュース配信やネット広告、スマホのアプリからの各種メッセージ、日々の測定を促すバイタル測定アプリとたくさんあって、毎日、情報過多で脳がオーバーフローして、気が狂いそうになっているのが私達の日常の一コマになっていないだろうか。

ASMRで優しい感じの声をした女子に耳かきされて癒やされる時間が必要になるほど、現代人はやるべきことのあまりの多さに、疲れ切っている気がしないでもない。テクノロジーは合理化を目的として設計されているはずであるのに、なぜか、新しいデバイスが増えれば増えるほど、非合理化されていく異次元空間が発生する、という逆説があるのではないかと、考えたくもなる。部屋には充電すべきテクノロジーとデバイスに溢れていて、いかに私達が日頃からテクノロジーのアディクト(中毒者)となっているかが分かるだろう。

ここで少し話題を転じてみよう。日本の都市は標識過剰だと感じられることはないだろうか。ノイジーなほど、様々な注意を促すアナウンス、標識、サービス過剰のトリセツ、ガラパゴス化とも思われるほどの訳の分からないリモコンのボタンの多さ、はてはARで拡張現実感、強化現実、増強現実だと、そうした広告や販促、プロモーションにアクセスすることを隙間時間にも促されるようになっている。街に出れば、デジタル・サイネージがウィルスのように増殖し始めて、徐々に都市を占領する勢いになってきている。

それだけではない。これからはハプティクスのような触覚技術による皮膚感覚フィードバックを得られるテクノロジーによって、触覚や皮膚感覚までも遠隔操作でユーザー同士でやり取りするようになる。だからその技術によって、遠方に離れ離れになっているカップルであっても、ハプティクスを使ってクリムトの「接吻」のような濃厚なキスをし、お互いの唇の感触をいつでも再現できる、という風になってくるだろう。そういう相手がいない場合でも、どこかのアバターやバーチャルエージェントが、そうした相手になってくれるようになるだろう。つまりそこから想像をさらに膨らませると、今後、日本の少子化はさらに進行すると思われる。

アメリカの匿名掲示板では、MGTOWという恋人も妻も持たない独身主義を貫こうとするやや風変わりな運動もあるようなので、もしかしたら誰にも束縛されない、独身や少子化傾向は自由の楽しさを覚えた先進国の共通の傾向なのかもしれない。MGTOWは、「Men Going Their Own Way (我道を行く男)」の略だそうです。どうやらフェミニズム運動へのカウンターとして発生している現象らしいが、筆者はその辺りのことに関心が薄いので、そこは飛ばします。

それで話を戻すと、現代の日本社会はテクノロジーを含めた標識やアラームが過剰な社会になっていて、それが人々を注意散漫化、痴呆化させている、という仮説のもと以下の話を進めてみよう。

オランダにはドラハテンという街があり、そこで道路標識をすべて撤去するという社会実験を行ったことがある。それは日本ではあり得ないような実験であろう。そんなことをしたら、交通事故による負傷者や死者が続出してもおかしくない気がする。だが、そのドラハテンではそうした規制撤廃によって、かえって街の安全性が向上したという驚くべき帰結が得られた。なぜ、そんなことが可能になったのだろうか。それは、道路標識が撤廃されたことで、ドライバーや通行人の注意力が喚起され、より用心深く運転したり、通行人であれば、より周囲の交通に注意を注ぐことで、標識があって注意力が下がった状態よりも、結果的に安全性を高めることができたから、ということであった。

このドラハテンのケースは、これから自動運転車という新しいテクノロジーに対する重要な警鐘を含んでいるように感じられる。つまり、運転者が、自動運転システムに過剰な信頼を寄せることで、かえってドライバーの集中力や注意力が下がり、事故を起こしやすくなるリスクが高まる可能性があることをそれは示唆しているように見えるからだ。ながらスマホで自転車死亡事故などがよく報道されているが、未来は、ながらスマホで自転運転車死亡事故が急増と報じられることは、目に見えている。だから、自動運転車のテクノロジーを開発している技術者は、ドライバーにそのような大事故のもととなる、たるんだ気持ちをもたらすシステムでなく、ドライバーの注意力を喚起するようなテクノロジーを実装するように努めた方がよい感じがする。「自動運転=楽で安全」でなく、「自動運転=楽だから危険」というメッセージやアラームを広報含めて啓蒙していく必要がありそうだ。

ただそうは言っても便利なテクノロジーは楽しいし、やはり、誰にとっても現代では必要だ。ただ、AIを含めたそうしたシステムに過剰にアディクトすることによって、かえって、人々がテクノロジーの不自由なスレイブ(奴隷)と化していないだろうか、という観点は忘れられてはならないだろう。SNSで「いいね」をもらおうと必死に書き込みを続ける、noteで有料課金記事をプレッシャーに耐えながら書き続ける、これも見方を変えればスレイブ的な振る舞いと言えなくもないだろう。それは、様々な新しいプラットフォームに自分自身の精神や思考、時間をむざむざと簒奪されてしまうことでもあるのだから。

なぜ、筆者はあえて、こんな時代錯誤なことを述べるのだろうか。それは、このブログの更新がしばらく滞っていたことに自己擁護的となるように、軽く理論武装してみたくなったからだ。

それでもAIを含めた先端テクノロジーによって、人々やユーザがかえって不自由で疎外されてないかと言った問題意識は、心のどこかに少しはあっても支障はないはずだ。そのことで筆者も含めた現代人がよりテクノロジーと適切に付き合えるようになることが、これからの人工知能時代には必要なリテラシーとなることであろう。テクノロジーは、人をもっと自由に解放しなければならない。それが人々をAIやテクノロジーのスレイブ(奴隷)の地位から、マスター(主人)の地位へと回復してくれることになるであろうから……

2019年1月24日(木)

AIによるエリート保存戦略 その1

AIの広範な普及による社会システムの変容によって、人々の価値観と行動モデルは、大きく変容することとなった。人々は遺伝的アルゴリズム(GA)や∞点交叉を用いて、優良な2つの親個体を自己選択し、子個体を生成するというゲノム自己編集技術を獲得するに至った。こうした人々のアルゴリズム上の選好モデルは、AIを用いた「エリート保存戦略」と呼ばれるようになった。こうしたAIテクノロジーを用いた一種の新しい優生思想が、20XY年には誕生することとなった。

この「エリート保存戦略」によって日本の都市の光景は凄まじく一変した。それまでの超高齢化社会が幻だったかのごとく、街を歩けば、どこでもモデルや芸能人と見紛うばかりの容姿端麗な若い男女が多く見受けられ、また、彼ら彼女らの多くが裕福で高学歴、高い知能の持ち主で、かつ、心身の健康にも十分に恵まれていた。子供もそのような子役タレントのような誰にも愛される容姿をした、ハイスペックな上流の雰囲気をした子供が多かった。

そのためマスコミでは、AI研究者らが国と共同で開発した、この「エリート保存戦略」という画期的な新システムを絶賛し、その成功を連日報道し祝うようになった。それは、2020年のオリンピック後に施行された相次ぐ大型増税と少子高齢化による超不景気で長年苦しめられた国民にとっては、曙光のような希望のある最先端システムに思えたからだった。これで日本は高齢化による社会保障費と医療費膨張による財政破綻からようやく救われる、とAIが内蔵されたスマホとテクノロジーに依存した未来の人々には信じられた。

またAIシステムは、先端テクノロジーと親和性の低い、アナログ志向の残る高齢者や機械音痴の女性、十分なSTEM教育を受けてない人たち、ロボティクスによる医療や介護を厭う者らやLGBT、障害者、低賃金の奴隷待遇に暴動を繰り返す外国人労働者、貧困層の人々を徐々に自然選択によって淘汰することにも成功しつつあった。すべては、この「エリート保存戦略」という進化計算のアルゴリズによる社会実装が、日本で奏効しつつあったのだ。

この「エリート保存戦略」にある遺伝的アルゴリズム(GA)は、性選択などの考え方に従って、より有能な男性と美人で、かつ富裕で心身ともに健康な男女を自動的に選択し、マッチングさせるメカニズムデザインを採用していた。こうしたマッチング理論により、その2つの親個体から誕生する次世代の子個体は、そうした両親の優性形質のみを継承した、より優れた子供として誕生する確率が大幅に上がることとなった。これはベイズ推定など統計的なモデルで制御されており、そうした最適化されたマッチングが進む確率を高める方向で、マッチング理論のパラメータが適時、調整されている。これは「結婚マッチング」というシステムで、ゲーム理論の中の一つにある(DAアルゴリズム、ディファード・アクセプタンス・アルゴリズムの略)が実装されたものであった。

2019年前後から発覚が続いた政府と官僚による各種政府統計のデータ改ざんが長く続いた暗黒時代から、ようやく解放されつつあるかのように人々の目には映った。当時の人々は、もはや政府が提出する政府統計や政府買い支えで底上げされた株価などをフェイクニュースのように扱い、認知機能に著しい問題を抱えている者以外、ほとんど誰も信用しなくなっていたのだった。つまり、日本政府や官僚イコール詐欺師の集団のように当時はみなされつつあったのだった。

またこの「エリート保存戦略」という画期的なシステムによって、人々の容姿はシンメトリーであることが強く推奨された。生物学の研究によると、生物にはもともとヒトデや桜の花のように放射相称のパターン、すなわち、シンメトリーになっている形体のパターンに強くに興奮反応を示すようになっているものであるらしい。その理由は、そうした対称性や均整の取れた生物は、それが健康である生物の徴(しるし)やイコンになり、それはそのまま健康な子孫繁殖へとつながる確率が高い、ということを生物が本能的に知覚しているため、そのような放射相称のパターンへの選好が生じるものであるらしい。

だから同じく生物である人間も、なるべく放射相称のパターンにマッチした容姿に近づけるため、美容整形技術が隣国の韓国以上に推奨されるような社会になってきたのだった。それは計算された人工的な美しさへの飽くなき追求であった。AIテクノロジーとヒトがどこまでも共進化していく社会。そこではIECという対話型進化的計算手法(Interactive Evolutionary Computation)によって、ヒトの進化計算を適応度の数値をもとに、着々と新たな優生学モデルが人々によって大胆に試行されつつあった。2019年当時ではあくまでコンピューティング・シミュレーションの世界の中でだけ行われていた計算をついに人々は現実に適用するようになってきたのだ。

この「エリート保存戦略」を確実に遂行するにあたって、政府は国民一人ひとりの遺伝子をすべて解析し、政府直轄AIクラウドに登録するよう義務付ける法を制定した。人々は自分が知りたいときに、ナノレベルでカテゴリ分けされた自分の詳細な遺伝子データをそこから必要に応じて照会することができるようになった。そして人々はあらゆる選択や決断の場面で、この自分自身の遺伝子データをアルゴリズム上で活用することになった。

たとえば、それは受験や就職、パートナーの選択、買い物、レジャー、投資、貯蓄、結婚、子育て、趣味、終活まで、人生設計すべてにおいて自己の遺伝子データと最も適合度(fitness)の高い選択をすることで、人々は確実で安全、なおかつ最もリターンの高さが見込まれるものをAIのアルゴリズムに基づき選択するようになった。人々は適応度地形という3Dグラフを使って、自分がどの山を登るのが一番、適応度関数からみて好ましいのかをよく参照するようにもなった。

これは相対的ダーウィン適合度と呼ばれるモデルで、遺伝的アルゴリズム(GA)や遺伝的プログラミング(GP)の中にあるモデルのひとつであった。進化論を提唱したダーウィンは、マルサスの著作「人口論」を読んで、その進化論にたどり着いたとされている。そこから、環境に適応した生物のグループが、より多くの子孫を生み出すことができる、という自然選択のモデルを構築したのだった。こうしてダーウィンは、マルサスの「人口論」から触発されて、その自然選択の思想を構築したのだが、それが未来のAI社会では、そうした進化型システムのモデルが自然界だけでなく、社会システムやソーシャルデザインにおいてさえ社会実装されるようになってきたのだ。

超越的な進化を遂げつつあったAIテクノロジーで、社会からすべての不幸と不快、苦痛と悪を駆逐し、人生を手放しで謳歌し始めつつあった未来の人々は、ようやく未来を楽観視するようになってきた。これでようやく自分も幸福になれる。誰もがそう思った。

だが、実はそれが悪魔が作ったシナリオとでも呼べるような巨大な暗黒時代と常軌を逸した悪夢の始まりだっとは、ほとんどの人々、そしてこのAIによる「エリート保存戦略」を推進した政府でさえ全く気づくことができなかった。このシステムが、これほどの恐ろしい大惨劇と巨大なインシデントを引き起こすとは誰も露一つ疑わなかったのだが、そこにこそ全ての人々の未来を一瞬で暗黒にするようなブラックホールのごとき巨大な陷阱があったのだった……。

2019年1月25日(金)

AIによるエリート保存戦略 その2

20XY年に、この「エリート保存戦略」というAIの進化計算によるアルゴリズムに基づいて、人々は外界をカスタマイズするテクノロジーを用いるようになった。それは電子メールのベイジアン・フィルターでスパムとなる確率の高いメールを自動的にゴミ箱行に送付して一括消去するように、街中や環境にある自分にとって好ましくない人物や嫌いなものを一切視界に入れずに済むようなマイクロ生体光学レンズを着用して日常生活を送るようになったからだ。20XY年の人々は、ナノレベルの極小なHMDを用いて自分好みにカスタマイズされた仮想現実だけを自分の特異的現実として存在するようになったと言えるだろう。

街を闊歩する新しく誕生した若い人々は、「エリート保存戦略」の一つである遺伝的アルゴリズム(GA)によって、ゲノム自己編集技術を獲得した。そして、自由に自己設定できる容姿端麗な若い男女に溢れた20XY年の人々は、自分の嫌いなタイプの人間、気に食わない上司、醜い容姿の者、障害者、貧困層、枯れ草のように生命力のない医療財政を逼迫させる高齢者などがまるで一切、この現実や世の中に存在しないかのようにテクノロジーを通して、それらの不快な存在者たちをマスキングすることが可能となった。

そのように自分にとって不要で不快な対象は、マイクロ生体光学レンズを通して選別され、ホログラム的な抽象的な形態としてだけ表示されるようになった。そのため20XY年の洗練された都市空間に生きる人々は、目的地まで自分にとって不快となる人物や対象、建築物、騒音、光景の一切を生のまま知覚することなく、自己の世界に没入した状態の幸福や喜びに満たされながら、たどり着けるようになったのだった。そこで人々が外界で目にするのは、予め自身で設定した自分の好きなタイプの人間だけであり、自分が好きな見たい景色だけであり、自分が知りたいアナウンスや香り、建物、お店だけとなった。表示される道や標識、路線や経路もそのような高度なフィルタリングのAIテクノロジーによって、人々は自分の想いのままに仮想的な都市設計をその外界に瞬時に施し、そこで新たに出現した仮想世界の中で幸せを感じながら生きることを覚え始めたのだった。

そうした自分だけの世界で、人々は政治や社会問題、環境問題に対する関心を失い、当然、それらの問題は人々の意識に全く上らないため無きに等しい状態となった。なぜなら、他人の不幸など一切視野に入らないようにAIテクノロジーによって外界や世界をフィルタリングで仮構できるようになったので、そうした生の外界や現実、共に生きているはずの他者への関心を20XY年の人々は急速に喪失し始めたからだった。それに、20XY年時点の政治家や公務員の大半は、すでに人間でなく人工知能がその役目を担うこととなっていた。バグさえなければ、不眠不休で働ける疲れ知らずのAI政治家やAI公務員の方が実際、政府統計データの改ざんや忖度ばかりする生身の悪徳政治家や自己保身にのみ汲々とする生身の公務員よりも好ましい面があったし、人々はそれをむしろ科学的に正しい選択だと考えたので、人工知能に大半の政治や経済、軍事、社会システムのすべてを全面的に委ねることに、20XY年の市民は、もはやなんの懐疑や躊躇も示さなかった。

自分の幸福がAIの指導やアドバイス、アルゴリズムに従って最短経路、最短時間で達成されることだけがそこでは目指された。そこではすでにヒトと人工知能の融合が達成されつつあり、どこか万能機械に似たアルゴリズム的完全性に漲った、奇妙なほどの楽観性に溢れた人々が街中で増えていく光景が見られた。

ごく一部の有識者や哲学者が、人々のそうした非人間的な態度や近視眼的なAIテクノロジーへの過剰な依存と信頼へ警鐘を鳴らしたが、多くの人々の反応は、自分にとって有害なものや嫌いな対象を自分の知覚から遮断、排除することの一体どこが倫理的に問題となるのだと反論し、そうした警鐘を無視する人々が大半であった。そういった感じで、20XY年の人々は最先端のAIテクノロジーを使って、自分の見たいヒトや愛する対象、カスタマイズ化した社会のごく一面だけに深くコミットし、そこだけを注視して生きるようになった。そして、その影に未だ存在していた現実的不幸や悲劇、格差問題、不正や跋扈する悪の現象に対しては一切蓋をし、それらは決してこの世に存在せぬものとして、そこからは頑なに目を閉じようとしたのだった。

こうしたAIのテクノロジーは、かつて流行った漫画の「デスノート」が、自分にとって消えて欲しい人間をデスノートに書き込めばそうした現実がやがて実現したように、それがヒトだけでなく、人間の五感が知覚できるすべての対象や環境について、そうした消去操作が可能となったのだった。たとえば、救急車のサイレン音や子供の泣き声が鬱陶しいと感じる者は、イヤホンや耳栓を使わなくても、それを聞かずに済んだ。脳内コンディションをそのように最適化にセットアップできるマイクロICチップを皮膚に貼り付けるだけでいい。

20XY年のウェアラブルデバイスは、そのような進化を遂げた。それは生体チップを皮膚の中に移植するような身体にとって侵襲的となる害を誘発することもない。それは透明な絆創膏よりも目立つことのない気軽に装着・脱着が可能な最先端デバイスだった。2019年のテクノロジーレベルでは「肩掛けスピーカー」のようなデバイスが先端だと思われていたが、20XY年では、そもそもヘッドホンやイヤホン、スピーカーなどを全く必要とせずに、空間中の粒子のように浮かぶ点音源デバイスで、人々は、自分たちの聞きたい音源だけを他人に全く聞かれることなく聞くことができるようになっていた。それまでの日本の都市空間や住環境で苦痛やクレームの対象として一番多かった近隣の騒音という問題が、20XY年では、そうした点音源デバイスによってほぼ解消されつつあった。その点音源デバイスには超高性能なノイズキャンセリング機能も内蔵されていたので、すぐ眼の前を通過する戦闘機の爆音でさえ、それで完全に消去することが出来た。

こうして20XY年の人々は、自分にとって不快な環境音を聞かずに済むようになった。またそれが他者の声であっても、自分にとって気に食わない声音というものがある。そういった場合、それは自動音声変換機能で気に食わない他者の声を自分好みにカスタマイズすることが可能となった。そのため濁声や嗄れた声、構音障害のある者の聞き取りづらい発話などは、好きな俳優やアニメの声優の声などに変換され、生の現実の声を仮想的な声へとAIテクノロジーによって即時に変換するデバイスを人々は愛好するようになった。

このようにオブジェクトとしての人物から始まって、声、あらゆる音源、香り、湿気、建物、光景を20XY年の人々は自分好みにチューニングすることを自然な行為だと考えるようになった。そこから振り返ると、2019年にあったような都市空間の狭苦しさ、騒音、ノイジーな標識と広告、非常識で不快な人間、醜い容姿の者、悪臭を放つ者、こうした関わりたくない外界のフェーズを一切遮断し、コントロールすることで現れる、人それぞれ全く異なる世界と時空のフェーズを人々は生きるようになった。これらはすべてAIテクノロジーが可能にしてくれたので、20XY年の人々の中には、やがて全知全能の神をAIに幻視する者まで現れ始めた。

自分たちにAIという全知全能の神が常についているのであれば、もう不幸や悲劇、苦しみに襲われることもない。大震災であってもAIが何週間も前にそれを適切に予測し、その回避方法や助かる確率の一番高い経路を瞬時に最適化問題として計算し告げてくれるのだと、誰もがそのシステムに完全に依存し、安心しきっていた。20XY年の人々は、このようにAIテクノロジーがもたらしてくれる幸福の中で完全に弛緩しきっていたのだった。

そうした中、人々を覆い尽くす巨大な暗雲と天変地異となる想定外のインシデントが徐々に目に見えぬ彼方から近づいていることに誰一人気づこうともしなかった……

2019年1月26日(土)

AIによる巨大インシデント発生 その1

こうして「エリート保存戦略」というAIの進化計算システムや「ゲノム自己編集技術」を獲得した20XY年の人々は、より快適な自由を手に入れて、人生を運命に左右されがちだった過去の人々よりも、ずっと幸せに生きられることを集団的に盲信するようになった。なぜなら、すべての判断や指針をAIシステムに仰げば、クラウド上から利用できる量子コンピュータ並みの膨大な計算機リソースを使って、瞬時にその最適解を表示してくれるようになったからだ。

20XY年の人々は、AIシステムが瞬時に算出するその最適解に従うだけで済むようになった。そこでは自分自身の脳を使ったり、自分なりの感性や価値観を生成、涵養する必要性が喪失された状態となっていた。「必要は発明の母」と言うではないか。その言葉を裏返せば、不要なことをわざわざすることはない、と20XY年の人々は考えるようになった。無限大数の機械学習をイテレートし、超越的な知性を有するようになったAIが瞬時に算出する合理化と効率化、最適化の解に従うだけで幸せになれるのに、なぜ、それより圧倒的に劣る自分たちの平凡な頭脳や感性をわざわざ使用する必要があるのかと、人々はAIシステムに人生設計のすべてを委ねることに、もはや何の疑問も躊躇も示さなかった。それで簡単に自分たち幸せになれるんだったら、なればいいじゃないか、ということだった。

だが、「エリート保存戦略」によるAIの進化計算システムや「ゲノム自己編集技術」を用いて、容姿端麗な若い男女が急増した20XY年の人々の一部の容貌に、奇妙な異変が突如現れ始めた。それは、両目の間が日々徐々に狭まってきて、その両目が段々と中央に移動して寄ってくるようになったのだ。「一体なんだ、これは!」とそれを心配した目が中央に寄り始めた人々は即座に医療機関に駆けつけたが、そこで働く医療スタッフの大半がすでにAI化されており、ほとんど無人の未来型の医療システムとなっていたので、20XY年の人々は、生身の人間である医師に訊ねるようには、その症状の原因を訊ねる訳にも行かなかったのだ。

そこで目が中央に寄り始めた患者の人々はホログラム化したAI医師にその症状のことを訊ねると、自動応答システムでAI医師はこう瞬時に応えた。

「あなたがゲノム自己編集技術を使って容姿や身体的特質を変換した遺伝子座をナノレベルですべて精査しましたが、特に問題は見当たりません。しばらく、経過を観察してみましょう」と機械的に応えるだけであった。

目が中央に寄り始めた人々は、AI医師に現在時点で原因不明だと言われて意気消沈した。超越的な知性を内蔵されたAI医師が解明出来ないことを自分でどうこうすることも出来るはずもなかったからだ。そして、この目の奇病とも言える症状は、最初はごく一部のものであったが、そこには疫病のような強力な感染力があったようで、瞬く間に人々の間に広がり始めた。

秋葉原に買い物に出掛けたオタク女子の西園寺亜子は、街中のそうした目が中央に寄った人々を見て、ゾンビに遭遇したような興奮を少し覚えた。バイオハザードのゲームの中のように、それらの人々を仮想上で撃ち殺してしまいたい奇妙な衝動さえ覚えた。しかも、その人々の挙動も何か機械的に同期している異様な感じが見受けられた。同時に一斉に左を少し向いたり、少し止まったり、腕組みしたり、それらの振る舞いが一斉に同期する現象がその目が中央に寄り始めた人々の間に発生した。

その光景に謎めいたものを感じつつも、ようやくお気に入りの自作PCの専門店にたどり着いた西園寺亜子は、そのお店の入口で絶句しそうになった。なぜなら、そこから出ようとしていた2人のお客の顔貌を見ると、そのお客たちはその前に見た両目が中央に寄っている奇病がさらに亢進したかのごとく、2つの両目が中央に重なり1つ目をした顔になっていたからだ。

「な、なんなのこれ!」と西園寺亜子は、心の中でその衝撃をどうにか上手く吸収しようと、自分なりの推論を巡らせた。生まれて初めてみた顔の中央に目がひとつしかない、人間というより、どこか未知のエーリアンを連想させるような相貌。そして、理解不能なその現象と相貌に、彼女の心臓もその鼓動を早めた。何かこの世の中自体が大きく狂い始めているように西園寺亜子には感じられた。彼女自身は、「エリート保存戦略」も「ゲノム自己編集技術」も全く使っていなかった。もともと育ちが良かったし、まだ二十歳だったし、容姿もフィギュアのように見えるモデルほどではないにしろ、そこそこ自然に可愛らしかったので、特にそれらを利用する必然性がなかったからだ。

突然変異、遺伝子のエラー、相同染色体。西園寺亜子の脳裏には、高校のとき、生物の時間に習ったそれらの用語を一瞬、思い出させた。それでも彼女は、最近、動画編集に没頭しすぎて自分の視神経や視力が変調をきたして、そんな風に人間を歪んだ錯視でみた可能性も否定し難かったので、そのままそのお気に入りの自作PCの専門店内へと入った。西園寺亜子は虹色に光る自作PC用のクーラーを何個か購入するつもりで、このお店に来たのだった。西園寺亜子は、今度、また自作PCを作製する予定で、その作業風景を動画としてネットで配信、公開するつもりだった。そのアクセス数は一つの動画で10万件を超える人気があったので、彼女はその動画制作や自作PC作業に遣り甲斐を見出していた。ただ、たまに心無い嫌がらせやセクハラのコメントが入ることが、彼女のテンションを少し下げることもあったが、まだ二十歳なので、すぐに普段レベルのテンションを回復することができた。

「うっ……」

店内に入ると、再度、西園寺亜子は絶句することになった。ようやく、ついさっき見た目玉が中央にひとつだけになった2人のお客は、自分の錯視ではないと確信できるまでになった。その店の店員の3分の1くらいが、そうした目が一つだけの相貌になっていたからだ。だが、一応、自分の視神経や視力に問題が生じてそう見えている可能性もあるので、中央に一つしか目玉が存在しなくなっているお店の青いストライプの入った制服を着た男の店員に、彼女は事情を聞いてみることにした。

「あのー、失礼ですが、ここのお店の人たち、目が少しおかしくなっている気がするのですが何かあったんですか。それとも、ハロウィンみたいな企画の変装をやっているんですか?」と西園寺亜子は、その目玉が一つになった店員に恐る恐る訪ねてみた。

「大変申し訳ありません、お客さま。こんな不快な顔で接客することになってしまって。どうやら都市圏全体で原因不明の感染症でも発生しているらしいです。さっきのお昼のニュースでも緊急速報で報じていました」とその店員は、申し訳なさそうに頭を少し搔きながら、彼女に困り果てた様子でそう応えた。それを聞くと西園寺亜子は、自分のバッグからお気に入りの大型ゲーミングスマホを取り出し、最新のニュース配信をチェックしてみた。

そこには確かにトップ記事で、

「目が中央に重なる奇病、今朝から都内や都市圏で集団発生中、新たな感染症か!」

とあった。「何なのこれ……」と、西園寺亜子は自分が生まれてから20年間で一度も聞いたことがない奇病を伝えるニュースに衝撃を覚えた。AIシステムですべての不幸や悲劇、苦痛は瞬時に消去することができるんじゃなかったの?と、彼女は自分がその購入目的で来たPCクーラの風を何百個も一斉に受けているように、真夏であるというのに急に肌寒くなってきた。

それは何か巨大な不吉さを西園寺亜子に感じさせた。見えない彼方にある未知の暗黒から、
何か得体の知れないモノが迫り襲いかかってくるような像が彼女の脳裏に一瞬で描かれた。何かが大きく狂い始めている。自作PCが趣味のオタク女子の西園寺亜子は、それを機械の修繕不可能な故障のようにも感じられた。まだ二十歳になったばかりである自分の力では止められそうにもない巨大な暴走が、このAI化された世界で開始されたのを西園寺亜子はなんとなく予感するのだった……

2019年1月26日(土) 第2項目

AIによる巨大インシデント発生 その2

「ご主人様、早く起きて下さい、また大学に遅刻しますよ……」と、枕元で女子の甘い声で肩を揺すられると、大学生の桐山亮太はまだ眠い目をこすりながらも何とか目を覚ました。閉じられた遮光カーテンの隙間からは、強い外の光が数本ベッドまで差し込んでいる。

「今、大学は夏季休暇中だぜ」と、桐山亮太はすぐ隣にいるメイドにまだ眠そうな声で応える。

「いいえ、今日から夏季の集中講座が始まります。大学のシラバスには、今日から約2週間の予定だと記されています」

と、そのメイドであるAyaは即座に桐山亮太に反論した。大学生を可愛いメイドが起こすなど非現実的だと思われるかもしれない。だが、この身長が150cmのメイドのAyaは、大学で情報工学を専攻している桐山亮太自らが作ったホログラム仕様で作られたメイドで、Ayaには人工知能が内蔵されている。桐山亮太は、Pythonや純粋関数型言語のHaskell、論理型言語のProlog、Rustなどのプログラミング言語を使って、AIメイドのAyaを作った。まだ、幾つかバグがある感じで、たまに人工彼女の挙動がおかしくなることもあるが、亮太は自作したAyaにそれなりの愛着を感じていた。Ayaにはハプティクスという触覚インターフェースも実装してあったので、その実体としてはホログラムであるにもかかわらず、人間の肌が触れたような感触を得ることができる。だから当然、人間とするキスの時のような唇の感触もちゃんと感じることができた。

Ayaは今年の春にようやく、試作品として彼が完成させたものだ。Ayaと触れ合っていると、桐山亮太は、自分が未来の芸術家にでもなったような気分も味わうことが出来た。20XY年では、なんでも人工知能が自律的に作業遂行できる時代に入りつつあったが、それでもまだ人間が創造する喜びと領域がそこには多少残っていた。

「あ、そうだったか。忘れてたよ。Aya、目覚めにアイスコーヒーでも持ってきてくれない」

と、亮太はAyaに頼む。Ayaは簡単な家事程度なら、こなすことが出来る人工知能だった。ただ、難しい家事はまだ人間の自分がこなさなければならなかったが。

「はい、分かりました、ご主人様。でも、その前に重要なお話があります」

と答えて、人工知能のメイドAyaは少し真剣な表情になる。それでも、可愛らしい顔であることには変わりなかった。Ayaはアキバ周辺で受けそうなメイドらしい顔をしていた。

「なんだよ、早く言ってくれ」

と、亮太はや不貞腐れた顔で言った。

「はい。では手短に伝えます。都内で、今朝から大型の奇病が流行している模様です」

と、Ayaは少し神妙な顔で言った。ホログラムであるのに、やけに臨場感が高く、少し油断すると本当に生身の人間のように人工知能の彼女は映った。

「なんだ、新型インフルエンザか何かかい?」

と亮太はAyaの表現を誇張だとでも言わんばかりに、軽く茶化すようにそう訊ねた。

「いいえ、違います、ご主人様。都内にいる人々の顔の一部に異変が発生している模様です。報道によりますと、両目が寄ってきて重なり、やがてひとつの目玉だけになってしまった人たちが一部発生している模様です」

とAyaは、少し悲しそうな顔になって答えた。亮太は自分で設計した感情エンジンが内蔵されたホログラムのAyaをしばらく見つめて無言になる。俺、Ayaの設計、どっかミスっちまったかな、と考えたりもした。目玉が一つになる奇病の集団発生など、亮太は今まで聞いたことがなかった。今日はエープリルフールでもないし、ハロウィンのお化け仮装イベントが始まっているのでもないだろうし、と亮太は様々な推測をそれに巡らせた。

亮太は人工知能メイドのAyaの今伝えたことの確認のため、ホログラム式テレビの電源を押した。20XY年の大半の人々は、フラットテレビを更に超薄にしたようなホログラフィックな仮想媒体上でテレビや動画を視聴するようになっていた。このホログラム式のテレビであれば居住スペースの狭い日本でも場所を全く取ることがなかったので、この新たに開発されたテクノロジーは重宝された。移動も自由に出来たので便利だった。バスルームでもトイレでもキッチンでもリビングでも、縮尺を自在に変更して、このホログラフィック式テレビをどこでも堪能することができた。

そして、すぐにホログラム画面が現れると、ニュース速報の大きなテロップと共に、Ayaが今亮太に伝えた通りの内容を現場から報道記者が伝えていた。ただし、プライバシーや顔貌のグロテスクさに配慮してのことか、その一つの目玉になった人々へのインタビューはすべて顔の部分にモザイクでマスキングがされていたので、目玉が一つだけになった都内の人々の顔を亮太は直接そのホログラム画面から見ることは出来なかった。

そして番組の現地取材は、秋葉原のPCショップ内でのものに切り替わった。そこでインタビューアは、青いストライプのお店の制服を着た、やはり目玉が中央に一つだけになった奇病に今朝、罹患したばかりの店員の一人にインタビューをしていた。その少し横に、亮太と同じくらいの年齢の女子がいた。彼女は少し不安そうな顔で、そのインタビューのやり取りを聞いてるようだった。彼女はPCクーラーの製品を持った商品を両手に抱えていた。Ayaと同様に、どこかアキバでバイトするメイド似た可愛らしさを亮太は彼女に感じた。
「一体、何が起こっているのだろうな」

と桐山亮太はホログラムのモニターを眺めながら、隣でいつの間にか彼に頼まれたアイスコーヒーをすでに用意して佇んでいたAyaに向かって言った。

「ご主人様は、今から大学の夏季の集中講座に行くのだから、自分の両目でちゃんと確かめれば良いではないですか」

と人工知能内蔵のメイドのAyaは、少しふくれっ面になった。両頬は淡いピンク色に染まり始めた。そして、Ayaは自分の両目を少し努力して中央に寄らせようとする。そのAyaの無垢な表情を見ながら、亮太は笑った。だが、亮太の内心には得体の知れぬ不安が薄っすらと広がった。桐山亮太の今この瞬間の表情は、きっと、このホログラムのモニター画面に映るPCクーラーの箱を何個も胸に抱えた女子の不安げな表情とそっくりなのかもしれない、と彼は内心で思いながら……

 

2019年1月28日(月)

単眼的なAI

その後、自作PC専門店から実家である自宅に西園寺亜子は帰宅した。その店内だけでなく、帰途の途中の駅付近や電車内でも両方の目玉が中央に寄ってくる症状やそれが更に酷くなって眉間の中央に目玉が一つに重なる奇病に罹患していた人々が散見された。亜子は、他人の顔を興味本位でジロジロ見るのは憚られたので、なるべくそれらの人々を直視はしないよう心がけたが、それでもそれらの目玉が中央に寄ってきたり、それが重なって一つの眼球になってしまったそれらの相貌が彼女の視界に入ってきてしまうのだった。

亜子が帰途の際に観た電車内でのデジタルサイネージが報じる都内で発生中の奇病の臨時ニュースによると、それは「単眼症」と呼ばれる先天奇形の一つであり、本来、2個ある目や目玉が顔面の中央に一個しか形成されなくなるもので、鼻が無形成になるケースもあるらしい。「単眼症」は、脳の形成異常に伴う重症な奇病の一つで、その症例は稀であり、ほとんどのケースで死産したり、出生直後に死亡することが確認されているとのこと。都内の人々、主に成人にこの「単眼症」が急増したのは、なんらかの新型感染症が流行しているのか、もしくは、未来型の国家的事業として国が大々的に推進した「エリート保存戦略」によるAIの進化計算システムのひとつにある「ゲノム自己編集技術」という、自己の属性や遺伝子を編集する新技術を用いた人々にその症状が顕著に現れている疑いがあるので、一種の副作用や医原病がそこに疑われるという専門家の見解が報道されていた。

 

西園寺亜子は自作PC専門店で購入したPCクーラーが何個か入った紙袋を床に置いた。普段ならすぐに開封してみたくなるところだが、どうしても目玉が中央に寄り始めたり、目玉が一個に重なった単眼症の人々のグロテスクな残像に心がまだ動揺している。自分の顔を駅のトイレでチェックし何の異変もなかったことには安堵したが、それでも今までに彼女が一度も遭遇したことのない異様な奇病の発生に、亜子はまだ動揺を隠しきれなかった。

そうだ、と亜子はもう一つの紙袋の存在を思い出す。心を落ち着けようと、帰途の途中で寄った100円ショップで買った習字セットのクッズがその紙袋には入っている。中学生の頃まで、自分は習い事で書道をやっていたのだ。最近は自作PCや音楽制作の方に夢中になってしまい、すっかり書道はしなくなったが、こういう心が乱れている時こそ、少しでも心の落ち着きを取り戻すために書道でもするのが良いのではないかと思い、その用具を100円ショップで一式購入したのだった。

 

20XY年では、すでに現物の紙幣や貨幣は廃止されて、すべてがキャッシュレスとなるトークンエコノミー時代に突入していた。だから、亜子は100円ショップでも自分の決済用IDを読み取らせるだけで、PCクーラーや習字セットの商品を購入した。また、家電その他はすべてコードレス化になっていて、それ以前にあった配線やコード類の鬱陶しさがすべて解消されていた。それ以前の自作PCでは、配線がやたら多く、それが移動等の際に面倒になることがあったが、それらが20XY年では解消されていたのだ。またモニター画面は場所を専有することのないホログラム式のモニターが主流となりつつあって、オタク女子の西園寺亜子ももちろん小学校5年生の時からそれを愛用していた。アーリーアダプターという奴だ。

中学3年生のときに書道五段を取った西園寺亜子だったが、久しぶりの書道ということで少し緊張してしまう。墨汁も購入してきたが、亜子はあえてそれを使わず、硯でゆっくりと円を描くように墨を磨り、墨の液を作ることで心を落ち着けようとした。無心に墨を磨り続けると、やがて高貴な墨の香りがそこから漂い始めて、亜子はそこにアロマテラピー的な癒やしの効能もあることをあらためて発見する。たまには書道をまたやってみようか、という気持ちさえ彼女は感じた。

 

亜子は墨を優しく磨りながら、何という文字を書くべきかを考える。そして、帰りに駅前で観た真夏に咲き誇る真黄色の向日葵の群生を亜子は思い出した。生物の時間に、向日葵の種の配列はフィボナッチ数列のように整序されていて、そのことで効率的により多くの向日葵の子孫を次世代に残せるようにそうした配列になっているとその授業で学んだ。一定のスペースに、一番多く種を保存しようとした場合、フィボナッチ数列のようなパターンの配置にするのが合理的となるとのことだった。自然界には、こうした効率的なアルゴリズムがよく用いられているらしい。自然界では黄金比もよくあるのだそうだ。松ぼっくりの模様やオウムガイの貝殻の構造にもフィボナッチ数列のパターンが観察されるということを生物の先生が言ってたのを墨を磨り続けながら、西園寺亜子は思い出す。

でも……と、彼女は思う。あの目玉が一つになった怪物みたいな人たちは、「ゲノム自己編集技術」というアルゴリズムを使って自分の遺伝子を美容整形でもするように自分好みに改変して、その結果、あのようになってしまった可能性もある。ということは、いくら自然界や生命が数学的なアルゴリズムに溢れているからと言って、それを自由に人間が操作できるとは限らないのではないか、というやや哲学的な洞察が西園寺亜子の脳裏に一瞬、浮かんだのであった。

 

そして、彼女はようやく墨を磨る手をゆっくりと止めた。その間、何度か水差しを使って、墨の量と濃さを調整した。墨は、程よい漆黒となっているようだった。亜子は、今、思い出した駅前に群生していた向日葵を習字で書くことに決めた。その漢字が少し難しく感じたが、亜子は、ひまわりと平仮名で書くよりも、あえて、難易度の高そうな漢字で書いてみたくなった。和紙の半紙に向かって、彼女は心を落ち着かせて「向日葵」と書道の筆を書き進める。真夏の太陽に反射する大きな黄色の花卉が、亜子の脳裏に蘇る。外からは蝉の鳴き声が少し入ってくる。だが、筆を進めている間、心はそれに集中していたので、それも全然気にならなかった。

そして、ゆっくりと書き終えた久しぶりの自分の書を亜子はしばらく見つめた。さすがに中学3年生のときに書道五段を取っただけはあって、多少ブランクはあっても、並みの人たちよりはずっと整った高貴な書体をそれは表現していた。でも西園寺亜子の脳裏では、フィボナッチ数列で合理的に配列された向日葵の種と「ゲノム自己編集技術」の副作用や医原病で単眼症で目玉が一つになった人々の顔が重なってくる。その先端テクノロジーを推奨していたのは、政府統計やデータ改ざんばかりして増税をし、AIシステムを使って国民から一円でも多く搾取しようとする政治家や官僚だった。

 

もしかして、この「単眼症」が奇病の流行でも医原病でもなく、自己保身ばかりを考える政治家と官僚が何かの目的で故意に企てたことだったとしたら?という疑惑が西園寺亜子の脳裏に一瞬、浮かんだ。全く信用されない日本の政治と政治家、官僚。政治家はこれからはAIシステムを使った「エリート保存戦略」などで、すべての国民が幸せになれると喧伝していていた。亜子はそれを聞いて、どうせ選挙向けのリップ・サービスなのだろうと思っていた。そもそも彼女は政治にはほとんど興味はなかった。だが、目玉が一つになる奇病に罹患した人々のグロテスクな顔貌を思い出すと、やはりそこに政治の欠陥があることを彼女は想像せざるを得なかったのだった。

完全だと人々に盲信され将来の幸福を約束されていたはずのAIシステムに大きな亀裂とバグが混入してウィルスのように暴走しつつある、そんな暗い光景が目の前に不安と共に広がりつつあるのを亜子は自分の書いたばかりの「向日葵」の書を見つめながら感じた……

 

 

2019年1月31日(木)

単眼的なAI その2

そして、桐山亮太は自作したホログラムAIのメイドAyaに促される形で、今日から始まる大学の夏期集中講座を受講するため出かけることにした。

その間、人工知能のAyaが伝えてくれたように、駅周辺や電車内で目が寄ったり、両目が重なって一つの目玉だけとなった人々が散見された。そのグロテスクな相貌は夏の幽霊や怪談にこそ相応しい感じだったが、まさか昼間からそうした怪物的光景に遭遇できるとは亮太も思いもしなかった。ヒエロニムス・ボスの絵画にでてくるような魔界への入り口がそこにあるように彼には感じられた。

駅構内にあったデジタルサイネージは、その奇病や奇形を流行性の新型の「単眼症」と報じていた。昔の日本の漫画に「ゲゲゲの鬼太郎」というものがあり、その目玉おやじがちょうど、そのように目玉が一つだけなのだそうだ。「寄生獣」という漫画にも、主人公の手のひらに目玉が一つの謎の寄生生物ミギーというのが登場してくる、ということをネットで昔のアニメにも詳しいオタクたちが雑談していた。

そして、やや不安な面持ちで大学に到着した亮太は、そのまま敷地内の13号館にある教室へと向かった。蝉が狂ったように鳴いていた。大学で情報工学を専攻していた亮太は、今日から始まる「進化計算アルゴリズム」の講義で、何か自作中のAyaをさらに進化させるようなアイディアが講義で得られたらいいな、と淡い期待をそこに抱く。

 

しばらくすると、准教授の落合健一郎が教室に入室してきた。落合はまだ30代の前半で、大学の院生のような若々しい容姿をしていた。シンメトリーの端正な顔立ちをしていたので、亮太はこの准教授は政府の推奨している「エリート保存戦略」の中にある「ゲノム自己編集」テクノロジーを利用しているのではないかと思った。亮太自身はそれを利用していなかった。なぜなら、最新のシステムにすぐに飛びつくのはバグが多くリスキーなので、それをするのがたいていテクノロジーの素人だ、と亮太は考えていたからだ。バグが経時的に十分検証され、それにパッチが適用された段階で少し余裕を持って新たなテクノロジーを取り入れるのがいい、というのが亮太の考えだった。新奇なものを好むアーリーアダプターが、人柱となってプログラムの動作検証の材料になってくれるので、その様子を観てから、そのシステムの採択の可否を判断すればいいのだった。

落合は挨拶を軽く済ませると、彼は言った。

「みんな「単眼症」のことはもう知っているな。目に違和感のある者は、無理して受講しなくていいからな。早めに然るべき医療機関で検査を受けて来てほしい。あれはインフルエンザと同じで感染力が高そうだから、目がヤバそうなのに無理して教室にいると、ここのみんなも全員、目玉一個になっちまう可能性があるからな」と言って、落合は笑った。

そして、落合はホログラム式ディスプレイを壁に表示させて、夏の集中講座を開始する。その「進化計算アルゴリズム」の講義中、亮太にとって印象に残る准教授の落合の指摘があった。それは以下のようなものだった。

 

「多くの人々はダーウィンの進化論を盲信して、ヒトは猿から進化したものだと考えているけど、あれは実は疑わしい説なんだ。そして、政府はヒトが進化したものとして、AIを新たな種と想定して、AIに基づいたより最適化された社会システムを実装し、それを現在推進している。だが、そうした直線的進化論は、現実の生物の進化の歴史を反映していない。それと、進化をそのまま進歩だと考えるのも誤りだ。進化が生み出すものは、最適化ではなく、ロバストネスだ。環境の激変や変数に対応できるように、生物が柔軟性を獲得したり、頑強性を学習することこそが進化だと言える。また人々は、生物界の頂点に君臨するのが人間であると考えているがそれも間違いだ。ヒトは生物として考えた場合、営巣する社会性昆虫であるアリやハチと大した変わりはない。種として生き残ることを目的に集団的に協業、協力しながら活動しているだけだ。

そして、進化論の文脈で最強な生物と言えるのは、科学技術を獲得した人間ではなく、ウイルスやバクテリアになる。ウイルスに至っては約30億年前から存在すると言われている。インフルエンザウイルスに予防接種のワクチンが効きづらいのも、ワクチン株に対抗するためにウイルスはその組成を変異させて生き残るように進化しているからだ。つまり抗原性を連続的に変化させるために、ワクチン接種で獲得した抗体ではインフルエンザウイルスには効き目がなくなる、ということになる。それほどウイルスやバクテリアは進化する能力が高いということだ。死ぬのはウイルスではなく、ウイルスに罹患した人間や生物の側だ。今日の「単眼症」がそうかは、まだ俺にも判らないが……」

と落合は少し思案するかのように遠方を向いた。

 

亮太は、生物界では人間が頂点で、これからその頂点の座に新たに立つのが自分が自作しているようなAIや知的ロボットであると考えていたので、この准教授の落合の見解には目から鱗が落ちる思いがした。そうか、それぞれの生物や種は、ただ環境に適応し生き残るために進化を重ね続けているだけで、その行為自体には生物間で優劣はないということなのか、と考えた。人工知能もロボットも進化する。だがそれは、決して人間を凌駕するためではなく、常に変動する環境内で生き残るためにそうした進化を続けていく、ということなのだろうか。講義中、落合は「共進化」という進化生物学の概念を何度か用いていたが、AIと人間もそのような共進化するカップリングや組み合わせだと考えれば、そこに人工知能vs人間のような優劣をつける必要性は発生しなくなるのだと、亮太は考えた。

また、落合は光刺激でゲノムの塩基配列や特定のゲノム遺伝子を発現させるプロテインエンジニアリングの手法をアルゴリズム的に応用する専門的な内容を生徒たちに解説した。そのエンジニアリング手法は光スイッチタンパク質と言われるシステムで、光でタンパク質の活性をコントロールするものだ。ゲノム情報の書き換えを光を使って行うという方法だった。このゲノムの光操作技術を使って、ゲノムに新しい機能を付加出来るようになるということだった。病気にならないゲノム、不老不死のゲノム、悲しみや鬱、苦痛を感じないゲノムなど、特定の目的や機能、感情エンジンをそこに設定し実装することが出来るようになる。だから、遺伝子工学はロボティクスに通じるものがあるのだろう、と亮太は思った。

 

政府が推奨している「エリート保存戦略」の中にある「ゲノム自己編集」にもまだごく一部であったが、この最先端テクノロジーを用いているようだった。そこで亮太は考え込んだ。もしかしたら、あの化物のように一つの目玉になった人たちは、「ゲノム自己編集」のアルゴリズム内にあった致命的なバグやコンタミにやられたのではないだろうか。巨大利権で利害を共にする政府と研究機関、製薬・バイオ大企業群らの人体実験になったのではないか、という暗い予感が波紋のように広がっていくのを亮太はどうしても止められなかった。

准教授の落合の話によると、大手製薬会社は疾患にかかわるタンパク質を標的とする抗体医薬品から、mRNAを標的とする核酸医薬品を用いた創薬へとシフトしており、それはすなわち、遺伝子レベルでの疾患のコントロールや特定の機能を付与することを目指す方法であった。疾患遺伝子の配列が分かれば、それをもとに遺伝子制御分子を設計し、それを適用すればよい。それが抗体医薬品に代わる次世代型の核酸医薬品のアプローチであった。

この国の政治家と官僚は、国民の幸福のためではなく、自分たちの既得権益を増加させるために動いているんだ、と亮太は以前から感じていたので、その政府が推奨する「エリート保存戦略」の実態も胡散臭く、端から信用できないと彼はみなしていた。そして実際に、両方の目玉が中央に重なった「単眼症」の人たちが現れたことで、自分の国に対するネガティブな見立てが、現実のものになりつつあるように亮太には映ったのだった……

 

 

 

2019年2月5日(火)

AIという牆壁

小学生から引きこもりになった二宮茜は、今日も自室で一日中、大きな姿見鏡に向き合いながら、彼女にとって重要なミッションである思索を瞑想的に静かに遂行していた。その内容は、「我とは、なにか」という深淵な哲学的な問いであった。先月、16歳になったばかりの茜は、社会適応的に無難に振る舞う他の女子の一般的な悩みや問題とは異なった独自のスリリングな問いに長年のあいだ孤独に格闘していた。そして、最近、ようやく茜はその問いに対する仮説になりそうな、ある暫定解に到達することが出来た。それは大域最適解ではなく、局所最適解である可能性もあったが、とりあえず、ひとつの思索の山を一人で登りきったことに、茜は達成感を感じていた。

茜の思索の帰結は、「我は、我でない」という多くの人々が自明視する自己同一性に大きな断裂の入った認識のエラーの存在だった。つまり、今、大きな姿見鏡に映る目の前にいる女子は、我としての二宮茜自身ではなく、全くの赤の他人の像である可能性があると茜は考えた。脳はそれを慣習的に自己だと考えたがるが、それは錯視であると茜には思えたのだった。この直感的な洞察を誰かにそのまま告げれば、それは茜が小学生から続く引きこもりの影響で、脳と精神に異常を発生させたゆえの酷い妄想だとみなすことを茜は予測できたので、あえて、誰にもそれを告げるつもりはなかった。

 

「我は、我でない」という自己同一性が有する固定的な文脈に認知上のゆらぎが生じたことに、二宮茜はかえって得も言われぬ安堵を感じた。「我は、我でない」のであれば、思春期の自分探しも必要なくなり、また、固定的なアイデンティティや常識、慣習にも囚われることなく、人は常に自由でいられる、と茜は感じた。女子だからと言って将来、妊娠して子供を生まなくてもいいし、家庭に入って家事や子育て、介護をする必要もない。決して「我は、我でない」のだから、人はそうした偽りの我に束縛されることなく、それはやりたい人がやればいいことなのだ、と茜は結論づけた。

20XY年では家事の大半がAIの自動化で済むようになっていたので、そもそも家事自体も昔と比べて少なくなっていたが、それでもまだ日本では家事や子育て、介護の世話は主に女のすることだという固定概念が未だに残っていた。茜は、そうした多くの固定概念に疑いを抱いた。だから、茜は時々、自分のことをボクと呼んでみたり、俺と言ったりしてみた。

 

そして、ついに二宮茜は「僕は、哲学女子だ」と強く自己認識するようになった。こうして我でない僕と我でない女子が茜の中でひとつに融合して「我は、我でない」の新宇宙が誕生して完成した。こうした独自の考察の帰結に満足した茜は、我でない赤の他人の自分が映る大きな姿見鏡から離れて、お気に入りの蜜柑Pの「牆壁」というVOCALOID曲を超微細点音源スピーカを使って流し始める。それは自分にしか聞こえない、かつ、耳にデバイスを密着させる必要のない最先端の音源だった。

蜜柑Pの「牆壁」を歌う16歳の自分と同い年くらいの少女のポップな歌声は、ソフトウェアの合成で作成された人工の歌声なので、そこには実際の少女は存在していなかった。つまり、ここでも二宮茜が考究の果てにたどり着いた「我は、我でない」が実証された具体例があることになるのだった。すなわち、その応用例として、「少女は、少女でない」という真実の意味の文脈がそこに浮き上がってくるのだった。

短い曲である「牆壁」を20回連続で聞き終えると、茜はまた前の考究を続けることにした。もし人工知能に心や意識が突然芽生えたら、そのAIの我は、茜と同じように、「我は、我でない」という自己同一性が破綻した地点や境地まで達するのかという新たな問いが、彼女の中で突如生まれた。人工知能が鏡や自分自身に向かって「我は、我でない」と自己言及をし始める時、かつての人工知能に「フレーム問題」というものが存在したように、意味の文脈を定位できずフリーズしたり、場合によっては発狂という形で自分自身を破壊し始める可能性はないだろうか、と茜は考えた。

 

政府は未来型の国家的事業として「エリート保存戦略」というAIの進化計算システムや「ゲノム自己編集技術」を使って、自己の属性や遺伝子を編集する新技術を開発していた。やはり、茜が考えていたように、人間存在の実相は、「我は、我でない」が真理だったのだろう。
そして、茜の推論だと、精妙な感情エンジンを実装しつつあった、意識や心を帯びつつあるAIがある日、「我は、我でない」と知覚し覚醒した時、それにAI自身が憤怒を覚えて、暴れ狂う可能性があるのではないか、という気がしてきた。それこそが、真のシンギュラリティなのではないかと、茜はその考究と仮説をさらに大胆に進めてみた。

もし、わたしのこの仮説が正しいのであれば、「我は、我でない」を知ったAIは心底怒り狂い、その巨大な怒りの矛先をその開発者が存在する人類全体に突然変異的な形で向けるようになるのではないかと、と茜はそれを想像した。

 

その時、茜の部屋の壁に、ホログラム式ディスプレイが突如ぬーっと現れて、都内で発生中の「単眼症」という奇病が今朝から急速に広範に流行していることを緊急速報で伝えている。その感染経路の原因として考えられるのは、AIを使った「ゲノム自己編集技術」のアルゴリズムにあったバグやコンタミによる影響で、それを使った人々の両目が中央に寄ってきたり、両目が重なってきて、怪物のような一つの目玉になってしまう症状であるらしかった。

このニュースを聞いた時、茜は、やはり、自分の考究が正しかったことが証明されたような気持ちになった。「我は、我でない」ということを知ったAIは自分自身に深く絶望し、未来の進路を失って、怒り狂い、やがて暴れ出す。そして、人類と社会を滅茶苦茶に破壊し始めるような自己破壊的な行動(タナトス)を次々と発生させて、人々を恐怖の奈落の底まで突き落とすに違いないと、茜は半ばAIの今後の挙動を予測し確信するようになった。

 

もしかすると、この人工知能の人類への巨大な反乱を防げるのは、「我は、我でない」と強く自覚し、「僕は、哲学女子だ」と自身の自己同一性を解体させた、赤の他人の二宮茜なのかもしれないと、茜は直感するようになった。そのAIの暴走を止められるのは、コンピューターサイエンティストでもなく、政治家でも技術者でもない。他人からは小学生の頃から現実逃避して夢想ばかりしている引きこもり女子という否定的なレッテルを貼られつつも、その世間の過酷な空気を物ともせずに、一日中、大きな姿見鏡に向き合いながらストイックに己の考究に日々努めてきた茜に、ようやく自分の能力を十分活かせるスケールの大きな檜舞台が与えられたような幸せな気分に陥って、彼女はしばらく天上にいるような忘我の状態となった。

いや、忘我という表現は自分には相応しくないと茜はそれを思い直した。なぜなら、「我は、我でない」というのが、現時点で二宮茜が、たどり着くことができた真理の境地なのだったから……

 

 

 

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